この1冊:第24回 小林秀雄全集第九巻所収「美を求める心」(新潮社)

 今年の大学入試センター試験国語の現代文評論に小林秀雄の文章が出題されました。小林秀雄は以前には受験生泣かせの難しい文章を書く評論家としてよく大学入試の問題にとられていたのです。最近はあまり出題されなくなっていたのですが、センター入試に出たことで久しぶりに話題になりました。テーマが刀の鐔(つば)、文章が小林秀雄ということも響いたのでしょうか、受験生の国語の平均点はかつてないくらいに低くなったようです。木村敏、岩井克人、鷲田清一といったタイプの本格的な評論の出題が続いていただけに、感性面での読み取りも要求される小林のエッセイはそれだけ意外だったということです。?

 私は学生時代の研究対象が小林秀雄でしたから、若い頃からその文章を読みつづけています。それは明治以降に日本人によって書かれた散文としては最高のものだと言われています。私自身、今後日本人が自分たちの文化や文明を省みる時に、小林の業績はなくてはならないものだと考えています。もちろん、日本文化の本質についての小林の見識にも大変深いものがあります。しかし、それだけではないのです。本当に文化の価値を伝えるものは、西欧のものだけでもないし、東洋のものだけでもありません。昔のもののみでもなく、現代のもののみでもありません。地域や時代をこえて、今を真剣に生きる我々の人間性に訴えかけてくるものでしょう。典型的な日本を代表する評論家としてとらえられてきた小林秀雄ですが、その根底にはプラトン、ランボー、ドストエフスキーといった西欧文化を代表する人々や中国の孔子などへの敬愛の思いもあるのです。小林の日本文化への考察はそういうものをいったんくぐり抜けたものだからこそ、それだけ普遍的な価値を持っているのです。?

 では、小林秀雄のどういう文章を読めばいいのでしょうか。小林の文章はちょっとした短文にも鋭い批評精神が生きているものが多いのですが(たとえば、この第九巻に収録されている「読書週間」など、短いうちに本質的な洞察がこめられた見事なエッセイになっています)、本格的には『本居宣長』や『近代絵画』などがいいと思います。『本居宣長』などはこれからも日本人の必読書だと言えると私は考えています。しかし、これらは対象についての知識がない高校生が読むには、難しいと思います。私はそういう質問を受けるたびに小林秀雄文学への入門として「美を求める心」という文章を読むことを薦めています。これは以前は小学校の教科書にも採られたものです。本校図書館には小林秀雄のハンディな新潮社の文庫本が何冊か入っているのですが、この文章はどれにも収められていません。そこでこの新潮社の全集ということになるのですが、旧仮名遣いと旧字体で書かれているので、高校生には読みにくいのが難点です。(ちなみに文庫本では文春文庫の『考えるヒント3』に収められています。)?

「ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時でも教えているものなのです。」
(「美を求める心」の結びの言葉。引用文は現代仮名遣いと新字体に改めた。)?

 美を求める心とは豊かに感じる心です。美しいものを率直に美しいと感じることのできるナイーヴな感受性をたたえた心です。そういう心で作られた芸術作品が本当に人間らしい文化文明を創ります。そういう心で鑑賞された場合に、芸術作品はその真価を伝えることができるのです。小林秀雄は「美」をめぐっても余計なおしゃべりが横行し、便利さや能率ばかりを追い求めるあり方を一貫して批判しています。心の中でもおしゃべりをやめてまず美しい作品をよく見てみましょう。美術工芸の黙して語らぬ作品でも、いかに豊かなものを我々の心に伝えてくれるでしょうか。作品がその美を伝えてくれるまでの沈黙にたえるために、我々に必要なのは作品に対する深い愛です。美しい芸術作品を大切にする気持ちとその作者への敬愛の念です。歴史や伝統を尊ぶ精神です。それは他の人々と一緒に生きていく時の愛情と同じものでしょう。立派な姿をした人間とは容姿のきれいな人ということではなく、豊かに感じる美しい心を持った人である、と小林は言います。この文章は読者にわかりやすく話しかける文体で書かれているのですが、ここにも美と倫理の一致を説く小林の面目が躍如としています。?

 芸術作品とはその時代を真剣に生きた人間の精神が美しいかたちとなったものにほかなりません。今回のセンター試験に出題された文章で小林が言いたかったのも、乱世に処する平常心が美しいかたちとなったものが「鐔」だということでしょう。乱れた精神状態で乱れた世の中をしっかりと生きることはできません。戦いにあけくれた時代にあって、武器の一部にさえ実用的でかつ美しいデザインを施すのは覚悟を決めた平常心をもって生きた人々の精神である。よく考えてみれば、その精神のあり方はこの現代を生きる私たちにも多くのことを伝え、教えてくれるものでしょう。こういうことを現在の文化人と称するほとんどの人たちは言葉にすることがありません(その都度に適当なことを言うだけで考えが首尾一貫していない人たちを評論家とかコメンテーターと呼ぶのはいかがなものでしょうか)。それは彼らの多くが(そして私たち自身も)乱れた心のままで乱雑な現代社会に処しているからではないでしょうか。それに比べて、私には小林秀雄の文章表現がそのまま確固とした平常心の結晶に見えてきます。(センター試験ではせっかく出題したのに、この主題に直接ふれた問題を設けていなかったのはどうしてだろうと思いました。)?

 小林秀雄は現在では高校の教科書に載ることも少ないのです。こういう文章を丹念に読む人たちが少なくなっているのは残念ですが、これからの日本社会を生きてゆく若い人たちには時代を超えて人間存在と美と日本文化の本質について考えつづけた小林秀雄の文章をよく読んでほしいと思っています。

この1冊:第23回『よくわかる 百人一首』(日東書院)

 正月が近づいてきました。正月以外の「1月」の異名を覚えていますか。1年生の古典の時間に習うのですが、「睦月」ですね。「むつき」と読みます。さて、正月恒例の遊びにもいろいろありますが、小倉百人一首を使ったカルタ遊びも代表的なものです。よく映像で流れる競技カルタは格闘技のようなすさまじさを持っていますが、一般的には取り札の歴史的仮名遣いに苦労しながら、なんとかとってゆく遊びという感じでしょうか。それに、百人一首の暗誦を課題にする学校も多く、小学校で覚えた人もいるかもわかりません。覚えることの意義を疑問に思わず、歌の意味や作者を意識しない小学生のほうが、五七五のリズムにのった「音の流れ」で丸暗記してしまうので早く覚えてしまうようです。高校生になると「なんでこんなん覚えんとあかんの?覚えて何か意味あんの?」という意識が出てきてしまう人が多いようです。

 できれば百人一首に様々なかたちで親しむのがいいと思いますが、せっかく覚えたり、遊んだりしている和歌の内容を理解し、作者のついても少しは知識を持つほうがいいのは言うまでもありません。教養知識を身につけるプロセスには「理解してから覚える」というものと「覚えてから理解する」というものがあります。日本の芸事、習い事の場合は後者のほうがいいと言われています。まずはごちゃごちゃと理屈をこねないで、身体が覚えるまで反復練習しなさいというわけです。百人一首に親しむのも、そのやり方がいいのですが、百首をいきなり覚えるというのも腰が引ける人が多いと思います。そこで次のような親しみ方はどうでしょうか。まずは百首の中から自分が好きな歌やすでに親しんでいる歌十首を選んで覚えてしまいます。選ぶに当たっては、実際に声に出して詠んでみて、何となくこの歌は好きだなという感じでもいいのです。五首では少なすぎますし、二十首だと心理的に負担になるので十首です。とにかくそれを暗誦できるまで繰り返し覚えます。できれば書いても覚えます。覚えることが必要なのです。覚えたなら、その十首にかぎって、歌の意味や成立の背景、作者のことなどについて解説書を読んで理解します。不思議なことに覚えていない状態でそれらの知識を読んでも頭に入ってこなかったものが、とてもおもしろく感じられるはずです。と同時に知識を持つと作品自体もより感動的にぐっと親しみやすいものに変貌します。これが和歌の「教養が身につく」という状態です。身につくとはまさしく身体で覚えるということにほかなりません。

 今回とりあげた本は、それぞれの歌についてやさしい解説(現代語訳や歌の成立の背景、作者のことなど)と札絵、それにおもしろい二コマ漫画をつけているものです。解説もていねいでわかりやすいですし、二コマ漫画もとても愉快なものです。ここではせっかくですから歌にまつわるおもしろいエピソードを紹介しましょう。この本からも少しはずれるかもしれませんが、本当はこういう知識はくわしければくわしいほどおもしろいものですから。私の好きな百人一首の歌の一つを紹介しましょう。

 いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに にほひぬるかな

六十一番の伊勢大輔(いせのたいふ)の歌です。この歌の適当なところに漢字をまじえた形にすると、「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」となります。「いにしへ(古)」と「けふ(今日)」の対比、「八重」につづけて「九重」という言葉の重なりが見事だと言われています。私は音の点から考えて、「奈良」の「な」に「七(なな)つ」が掛けられているという説に賛成です。「七」「八」「九」という末広がりの数字を織り込んでいることになります。それから「けふ」は「キョウ」と発音しますから「京」が意識されていて、「奈良」との新たな対比が含まれているとも考えられます。「いにしえの昔に都があったゆかしい奈良の八重桜、その桜が今の都がある京の宮廷でめでたくも美しく咲き誇っていますよ」という意味になります。何とも明るい調べと内容ですよね。朝廷のいっそうの繁栄をたたえる内容にもなっています。

 平安時代、一条天皇の時に奈良の都から美しい八重桜が朝廷に献上されました。時の中宮は彰子(藤原道長の娘です)で、本来の受けとり役はあの紫式部でした。ところが紫式部はその役を新参女房だった伊勢大輔に譲ったのです。道長はこういう場合は黙って受けとるものではないと言って、伊勢大輔に即詠をうながします。さあ、大変です。当時の中宮彰子の女房は紫式部をはじめとするそうそうたる面々ですし、貴公子たちも一流の人物ばかりです。そういう人々が注視するなかで、即興で和歌を詠むことを求められたわけですから。実は伊勢大輔は四十九番「みかきもり~」歌の作者である大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の孫で、父親の祐親(すけちか)も歌人として有名でした。いわば歌の名門の家筋の娘だったのです。その名門の血をひく新参女房のお手並み拝見というところでしょうか。一流の文化を身につけた人々のコミュニティのなかに入るのですから、それなりの実力が求められるわけです。それに上手く詠めなければ家門にも泥を塗ることになってしまいます。伊勢大輔は極限のプレッシャを感じたでしょうが、それに負けずに見事に詠んだのがこの歌でした。上に述べたような技巧に加えて、ナ行音が繰り返す見事な調べと晴れやかで格調の高い詠みぶりに一条天皇をはじめ、その場にいた宮中の全員が大変感動したと言われています。伊勢大輔はみごとに名門の子女としての面目を施したのです。(今の感覚で言えば、有名選手の息子としてプロ野球に入った新人選手がチャンスで主力バッターの代打を命じられて、いきなりホームランをかっ飛ばした感じですね。)

 それ以外にもたとえば七十五番の「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり(かたく約束してくださったあなたの言葉を頼みの綱にしてはかない命をつないできましたのに、ああ今年の秋もむなしく過ぎ去ってゆくようです)」という藤原基俊の歌があります。これははなかな約束を果たしてくれない異性への嘆きの気持ちを詠んだものだと思われがちですが、実は自分の息子に名誉ある大役をさせてあげてほしいということを一族の長者に訴えた歌なのです。これを「親バカ歌」 だと酷評する向きもあるのですが、自身が思うように出世できなかった作者がせめて息子にだけは晴れの舞台をと強く懇願する親心の表現だととればいいのではないでしょうか。何とも人間くさいですね。

他にも数々の伝説に満ちた和歌など、とりあげたい歌がたくさんありますが、きりがないのでこのくらいにしましょう。とにかくそれぞれの歌の背景には少なからぬドラマがあります。それらに親しみやすくふれることができるという点でも、今回紹介する本は推薦に値すると思います。書店に行けば、この時期には様々な種類の百人一首の解説書が出ていますから、自分にあったものを購入するのもいいかもしれませんね。

この1冊:第22回 齋藤孝『こんなに面白かった!「ニッポンの伝統芸能」』(PHP文庫)

 著者の齋藤孝氏はテレビのコメンテーターとしても活躍していますから、知っている人も多いでしょう。もともとは教育学が専門の方ですが、著書は多分野にわたっています。私も何冊か読んでいますが、やはり教育関係の文章がもっとも精彩をはなっていると感じます。今回紹介する本は教育学のものではありません。しかし、芸能習得と教育には共通する部分が大きいためでしょうか、大変勉強になる内容を持っていると感じました。題名は俗っぽいのですが、内容は日本伝統芸能論としてしっかりとしています。

 齋藤氏はものごとを習得するときに、身体性を大切にします。頭だけで知的に理解して済ますのではなく、「からだでおぼえる」ことの必要性を説きます。氏はそれを自身でも幼児や小学生の教育現場で実践しています。名文を目で読んで頭で理解するだけではなく、繰り返し声に出して読み、あるいは書き写して覚えるわけです。それはまた、日本人が「芸事」を身につけてゆく時に長い歴史において実際に行ってきたことでした。我々の国の先人はそういうふうにして静かな自信に満ちたすぐれた文化を生み出してきたのです。

 齋藤氏もこの本のなかで少し触れているし、夏目漱石なども講演文のなかで述べているように、どうも日本人は自分たちの文化を過小に、よその文化を過大に評価する傾向が強すぎるようです。グローバル時代になってたしかに外国語学習の必要性はますます増すばかりでしょう。でも、どこまでいってもそれがネイティブなものでないかぎり、我々は「本場」の人々に追いつき、追い越すことは難しいのではないでしょうか。そこには根がないのに、あたふたと無理をして大きな花を咲かせようと努力する。我々にとって根のある文化とは我々の伝統的な身体性に育まれた文化であるはずです。齋藤氏はその伝統的な身体性のことを「文化的なDNA]と呼んでいます。それを見直し、そのすぐれた点を認識し、生かそうと努めることで、日本人は本当の自信を身につけることができるにちがいない。齋藤氏のテーマもそこにあると考えます。

 紹介されているのは茶道、歌舞伎、能楽、俳句、禅です。君たちには縁遠いものばかりだと感じるかもしれません。時間に余裕のある人が趣味としてたしなむもの、というイメージでしょうか。(古くさくて興味関心を持つに足りないという感じを持っているとしたら、それは誤ったグローバリズムに毒されているためかもしれません。真のグローバリズムは生き生きとしたローカリズムのうえに成り立つものです。)しかし、この本を読んでみれば、これらがそれぞれすばらしいパフォーマンスであることがわかるはずです。いちいち紹介することはしませんが、一貫して主張されているのは

①「守破離」…感性はすぐれたものとの出会いによって磨かれて本物になってゆく
②「型」…真の個性は生来の気質を伝統に基づく教養によって訓練することで開花する
③「暗黙知」…積極的な受動性というべき姿勢によって日本文化の身体性の本質は身につけられてゆく

というようなことです。この本がすぐれているというのは、読んでいるとそれらの芸能などを自分でもしたり、鑑賞したくなってくるところがあるからです。我々の身体性に受けつがれている伝統的な良さを楽しみながら花開かせ、日本の「学び」の本質を習得してゆく。それはこれからの君たちにとっても大いに参考になることでしょう。

この1冊:第21回 武者小路実篤『友情・初恋』(集英社文庫)

 授業で生徒にできるだけたくさんの小説を読むように勧めると「オススメの作品はありますか」と言われます。日本の現代作家の作品や外国の有名な作品を出して、あれこれ紹介するのですが、なんとなく我が国の近代小説は後回しになります。理由は、凝った文体で書かれ、使われている漢字も難しいものが多いからでしょうか。外国の小説は新訳が出ると、言い回しが現代風に変わってゆきますが、オリジナルの日本近代小説はもちろんそのままです。今の高校生たちが自分で読んで、用語や言い回しがわかりやすくて、しかも内容的にもそれなりにおもしろいものはなかなかありません。でも、全然無いかというとそういうわけでもなくて、今回紹介する『友情』はその条件を満たす作品だと思います。

  『友情』は若い男性二人女性一人による三角関係を描いたものです。その点だけで言えば、君たちが2年生で学ぶ夏目漱石『こころ』と同じになります。しかし、どちらも悲劇的にせよ、作品の色調はとても違います。漱石のものが暗くて渋い色調であるとすれば、武者小路のこの作品は、はっきりとした明るい色をたたえています。特に、三角関係の結末の描き方は両者では大きく異なります。

若い作家脚本家の「野島」は友人「仲田」の妹である「杉子」のことが好きになりました。その容貌の美しさに魅せられてしまったのです。しかし、野島は内面的に苦悩を抱えて、ひそかに杉子への思いをつのらせるばかりでした。年長の友である「大宮」だけは野島のそういう葛藤を理解してくれて、そのピュアな恋情が実るように応援し、力を貸してくれるのでした。同じ友人でも仲田の恋愛観は打算的であるのに対して、大宮のそれは純粋で理想主義的なものであり、野島はますます大宮のことを頼りにする気持ちが強くなってゆきます。

「いつでも大宮の処へいくと彼(=野島)は胸がすいた。よき友を有することを感謝しないではいられなかった。自分がなにをしても少なくも大宮だけは理解してくれると思った。」

  ある時、パリに行った大宮から野島は手紙を受け取ります。そこには、同人誌に発表した自分の小説を読んでほしいという旨の言葉が記されていました。その小説には大宮と杉子と思しき人物の手紙のやりとりが書かれていたのです。はじめてこの部分を読んだときに私は杉子の大宮を慕う気持ちの強さにうたれると同時に、そこに記された野島からの愛を拒絶する杉子の言葉の激しさにショックを受けたことを記憶しています。

「私は野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります。」
「どうしても野島さまのわきには、一時間以上はいたくないのです。」

杉子にとって野島の自分への求愛は嫌悪感を催す「ありがた迷惑」以外のなにものでもなかったのです。このあたりはこの作品のすぐれた叙述がつづくところで、作者の筆も冴えているところでしょう。ですから、実際に読んでみてほしいのですが、理想的な男性像に近い大宮を一途に慕うゆえに杉子が持つ、若い女性特有の酷薄さがみごとに描かれています。何かを選ぶということは、それ以外の何かを選ばないということです。それを選ぶ基準が恋愛のように感情に基づくものである場合は、選ばれなかったものへの拒絶はおうおうにして強いものになってしまいます。同情や恩義などで恋愛をするわけではありませんから、仕方がないのですが、選ばれずに拒絶された側の心の傷は深く残ってしまいます(恋愛におけるそういう不可避な人間模様をも良い文学はしっかりと描きます)。そういうこともすべて承知したうえで、大宮も野島との友情を犠牲にしてでも、杉子の愛を受け入れることを決意します。大宮の作品を読み、すべてを知った野島は取り乱しながらも「傷ついた、孤独な獅子」としてこれからの人生を強く歩む決意をするのでした。本当は最後の野島の言葉も印象的なのですが、それは実際に自分で読んでみてください。

 野島よりも男性としての容姿や才能の点ですぐれる大宮のほうを杉子が好きになるのは、たいへんリアリティがありますね(杉子ならば精神的にもというかもしれませんが)。挫折しても人は自分の足で立ちあがり、たとえそれが他人よりも劣っているものであっても、持って生まれた自分の資質を受け入れ、しっかりとそれを開墾してゆくことで闘ってゆくしかない、そう思い知った野島にはこれから人間としての真の強さが芽生えてゆくのでしょう。ベートーヴェンが白樺派にとって理想の芸術家のひとりだったのも納得がいきます。(ちなみに容姿が人一倍すぐれない人間が、しっかりとした妻女の支えによって立派に大成してゆく話としては森鴎外の歴史小説『安井夫人』があります。)

短いですし『友情』は白樺派入門としては最適の一冊でもあります。苦難をかかえながらも人道の理想を求める白樺派の作品は若いころに一度は読んでおいたほうがよいと思います。この作品がおもしろかった人は、ぜひとも長編傑作である志賀直哉『暗夜行路』、有島武郎『或る女』にも挑戦してみてください。たしかに長くて読み通すのに忍耐がいるかもしれませんが、それだけに読み終えた時の充実感には格別なものがあります。この両作品も本校図書館に活字が大きく改版された新潮文庫で入っています。

この1冊:第20回 岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)『いま哲学とはなにか』(岩波新書)

 書店の思想書コーナーに行くと、「わかりやすさ」を売り物にした本が山積みしてあります。いわく「~分間でわかる」現代思想、いわく「誰でもわかる」有名思想家の哲学、といったぐあいです。翻訳語を基本とするために日本の近代哲学が必要以上に難しくなってしまったことは間違いないでしょう。哲学分野が多く出題される大学入試の現代文の評論が難しくなる原因のひとつもそこにあります。ですから、少しでも親しみやすくするためにそういう本があることを否定はしません。しかし、一人のすぐれた思想家が自分の全人格をかけて思索した思想内容がそう簡単に理解できるものでもないということもふまえておく必要があります。今回は少し長くなりますが、非常に良心的な哲学の入門書を2冊紹介したいと思います。

 岩田靖夫の哲学書は流行性を前面に出すこともなく、記述においても宣伝的にわかりやすいことを主張していません。けれども、その内実的な価値は非常に高いと私は思います。第一に正統的な哲学の教養を駆使して、正確にして深い思索内容が展開されていると感じます。哲学の歴史を解説しながら、そこに現代の問題を見いだし、考えてゆくのです。単なるわかりやすい解説に終わることなく、哲学思想をめぐる自分の考えがていねいに述べられています。第二に今回紹介する2冊は文体的にもたいへんわかりやすく工夫して書かれています。何よりも、著者が現代の課題にとりくむ哲学者として読者に向かい合う真摯な姿勢がすばらしいのです。この人の本はこれからの日本の若者にとって良い指針の一つになるにちがいないと私は思います。思想でさえ手軽に扱われるような時代だからこそ、老若男女を問わずに真面目に考える、「哲学する」ことが求められるのですから。プラトンは哲学の言葉によって魂を咬まれた、と言いました。知を愛する好学心にひとたび目覚めた人間は真理を求めて学び、考えつづけるのです。

 ここでは私なりに岩田靖夫の考えの要点をまとめてみたいと思います。高校生向けによりかみくだいてみました。 さて、我々は一人では生きてゆけません。人と人のつながりの問題は、人間にとっては避けては通れない大きな問題です。それをめぐる岩田の考えの特徴は大きく二つに分けることができます。

Ⅰ 社会のあり方を考える哲学
 まず我々の社会や政治のあるべき姿を考える哲学について考えてみましょう。そこには現代社会においても同じ問題が存在しつづけていることがよくわかります。岩田が採りあげている思想家はプラトン、アリストテレス、ロールズです。

 プラトンは理性的な哲学者が「善」の理想にしたがって行う「哲人政治」を説きました。大衆の欲望のままにしたがう政治は愚かな傾向に支配され、やがてすさんでしまいます(衆愚政治)。しっかりと思索をつづける者がトップの為政者となることで理想の社会が実現するとプラトンは考えたのです。しかし、現実的には権力の座についた人間は堕落しやすく、特定の人間による執政は独裁政治を生んでしまう可能性があります。

 そこでアリストテレスは中庸の徳を持つ人々による「中間の国制」を説きました。それは良識ある人々が自分の能力にのっとって、自由と平等の自覚のもとに集う社会形態です。この考え方が現在の「デモクラシー」、民主主義の基礎になっているのです。ただし、この考えにも欠点があります。能力主義がゆきすぎると、社会的弱者と呼ばれる人々は幸福になる可能性を奪われることになります。

 アメリカの社会政治学者のロールズは「正義」と「能力共有財産」という考えを説きました。現代のような多種多様な文化や考え方を持つ人々が交流する世界にあって、行動基準となるのは公正さとしての「正義」です。ロールズの「正義」とはあらゆる人が互いの自由と平等を認めあうことです。そのためには、たとえ能力的に劣った人がいたとしても、その人も自由と平等を保障されなければなりません。個人の「能力」はもともと偶然に与えられたものでしょう。それは「共有財産」として活用されなければなりません。そうすれば、すぐれた能力を持つ者が自分以外の人々のためにその能力を用いて、より住みやすい社会を作っていくのが正しいということになります。これはこれからの福祉や社会保障の大切さを支える思想だといってよいでしょう。

 プラトンとアリストテレスの政治哲学は理想主義と現実主義の源泉です。今の政治思想も基本的にはこのどちらかにもとづくものがほとんどでしょう。ロールズの思想はグローバル社会において共に生きるということを真剣に考えるための手がかりになります。

Ⅱ いかに生きるべきかを哲学的に考える
 我々は人と人のつながりの問題を自分の生き方にひきつけても、よく考える必要があります。岩田靖夫はヨーロッパ思想の根源にあるヘレニズム(ギリシア思想など)とヘブライズム(ユダヤ教、キリスト教など)にさかのぼって、現代を生きる哲学者として、その課題に取り組むのだと言っています。

 古代ギリシアのソクラテスは人は単に生きるのではなく、正しく善く生きることが大切だと説きました。つまり、倫理的に生きることが人間の使命だと考えたのです。倫理的に生きることには他者のかけがえの無さを認めて生きるということも含まれるでしょう。

 しかし、人間はともすれば自己中心的な生き方をする存在です。他人も含めて、世の中のものを自分にとっての損得や好悪で価値のランク付けをしながら生きています。言わば、自己中心的な自分はかけがえのない価値を持つ他人に囲まれて生きているのです。そういう自己と他者を結ぶことができるのは「愛」や「善意」になります。人間社会の現実的なルールは報酬と報復に基づいています(ハムラビ法典にいう、目には目を、歯には歯を、ということです)。それに対して、無償の愛や究極の赦しがヘブライズムの宗教によって唱えられました(大まかに言えば唯一の「神」が持つ絶対的な価値を個々の人間も分け持つはずだというものです)。

 その考えを現代に受けついだ一人にユダヤ人のレヴィナスという哲学者がいます。レヴィナスの思想の基本は、本来「愛」や「善意」はこちらからの一方通行のものだ、というものです。そこに対等な報いを求めるところには本当の愛や倫理はありえない。そうなってくると、人間を超えるものでないと、人間を最終的には価値づけることはできないという宗教や信仰の領域に入ってきます。岩田は宗教のことにもたくさん言葉を費やしていますが、ここではふさわしくないので、とりあげません(興味ある人は実際に本文を読んでみてください)。とにかく、殺人や戦争は無償の愛に基づく究極的な赦しによってしか無くなることはないと考えられているのです(ナチスによって家族を虐殺されたレヴィナスがこういう思想を説くところに迫力がありますね)。

 さて、実際に我々はどこまで倫理的な生き方を貫けるのでしょうか。ますます功利的な自己中心主義が幅を利かせる現代社会で、自分だけがどこまでも潔癖に正しく生きることができるのでしょうか。また、大衆のあり方が混迷し、国際的にも問題が噴出している社会政治は今後どうなってゆくのでしょうか。どういうあり方を探ってゆけばよいのでしょうか。そこで生きる我々はどうすればいいのでしょうか。他の人の考え(岩田靖夫のものも含めて)はあくまでもその人のものにしかすぎません。これらは社会を生きる一人ひとりが真剣に考えるべき問題なのです。そのうえで、みんなでしっかりと話しあってゆくべきことだと思います。これから青年期を経て社会人になってゆく高校生のみんなにもぜひ考えていってほしいと思います。岩田靖夫の本はそのための最高の参考書になるでしょう。

☆定期的に本校のホームページにアップしてきた「この1冊」も20回を重ねました。今後のアップは不定期になると思います。翠翔の生徒たちよ、多くの書物を手にとって読みに読むべし。そして、精神的に成長し、明日を生きる新たな自分を創造しつづけていってください。図書館にあるたくさんの本は君たちの手にとられ、読まれることを待っているのです。これまでの文章が少しでもその導きの役割を果たせたならば、と思います。

この1冊:第19回 『世界名言集』(岩波書店)

「ただ、返すがへす、初心を忘るべからず」(世阿弥『風姿花伝』)

ものごとを習得していくうえでの心の持ちようとしては最高のアドバイスのひとつです。「ただ、返すがへす(とにかく、くれぐれも)」というところに、後につづく者に強い警鐘を鳴らす気持ちが響いています。それだけ、この大切なことがおろそかにされやすいということなのかもしれません。経験を積み、技を極めた人による肺腑の言といえるでしょう。短くて、しかも的確に、ビシッと修業における大切な本質を射貫いています。

いくつかの詩や文章を何らかの意図によって編集したものを「アンソロジー」といいます。選ばれるものは短いものから長いものまであります。今回とりあげるのは古今東西の名著から集められた短い言葉の選集です。最初にとりあげた世阿弥の言葉もこの本に載っているものです。もともとは岩波文庫の別冊シリーズ『ことばの花束』『ことばの贈物』『ことばの饗宴』『愛のことば』として刊行されたものを再編して一冊の本としてまとめたものです。

学校の国語や歴史の時間などに名前は聞くものの、実際に手にとって古典的名著を読もうという人は少なくなってきているようです。名著とされる本にはやはりそれなりのすばらしさがあるのですが、まず読んでみないことにはその価値もわかりません。「原典そのものから喚起力のある章句を切り出して提供したらどうか。わずか数行であってもそれは要約や解説などとは違って、原典の生の魅力を伝えることができるはずだ。」(岩波文庫編集部)上記の四冊のアンソロジーがまずそういう意図に沿って編まれていったのです。解説の類は付いていないのですが、とても印象深い章句がたくさん集められています。蛇足になりますが、こういう感想もあるのだという参考までに簡単なコメントを加えました。現代を生きる我々に省察をうながす言葉をいくつか一緒にみていきましょう。

「僕が考えてみるのに、もし悪魔が存在しないとすれば、つまり人間が創り出したものということになるね。そうすれば人間は自分の姿や心に似せて、悪魔を作ったんだろうじゃないか。」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)…深い真実を突いているだけに、恐い言葉です。日本にも「心の鬼」という表現がありますが、悪魔は人間の似姿だというのです。同じ理屈で天使も人間の似姿なのかもしれませんが、悪魔といわれたほうが真実味を帯びて感じてしまうのはなぜかと考えさせられます。

「世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。」(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』)…自他が幸せになるためには精神的な強さが必要になるということです。自分の弱さを克服するというのは、目立たないことですが、各自にとっての大きな試練ですよね。プラトンもあらゆる勝利のなかでも自己に対する勝利が最高のものだと言いました。

「手軽なことだ、災難を身に受けない者が、ひどい目にあってる者らに、あれこれと忠告するのは。」(アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』)…プロメテウスは天上の火を盗んで人類に与えたために、ゼウスから処罰されたギリシャの神です。縛られた状態で半永久的に猛禽類に内蔵をむさぼり食われるのです。これも耳の痛い言葉ではないでしょうか。トラブルの最中あるいは事後に、高みの見物を決め込んだ人間から発せられる言葉は往々にして当事者の心の傷をより深くしてしまうものです。無神経なこの種の言葉が横行するマスコミなどに対する批判精神を失いたくないものです。

「没落してゆく民族がまず最初に失うのは節度である。」(シュティフター『水晶他三編』)…最近の国内外の様子をみても、大丈夫かなと思ってしまいますよね。特に地位も立場もある大人の子どもじみた行動を目にしたり、経済効率ばかりをしゃにむに追求する言葉が飛び交うのを聞いていると情けなくなります。「これは恥ずかしい」と思う気持ちを無くしてはいけないのではないでしょうか。人はパンのみによって生くる者にあらず。しかし、現実には食糧なしには我々は生きてはいけません。けれども、誰にでも食べ物さえ与えていればそれで満足すると考えるのも、人間を見くびった驕りというものでしょう。

「嫉妬に御用心なさいまし。嫉妬は緑色の目をした怪物で、人の心を餌食にしてもてあそびます。」(シェイクスピア『オセロウ』)…人の心を餌にするというところよりも、「緑色の目をした」という表現が妙に生々しくて真に迫っています。用心していても、この怪物は緑色の目を輝かせて我々を翻弄します。別に恋愛にかぎらず、うらやんだり、やきもちを焼いたり、人間にとって、この怪物は最大の難敵ではないでしょうか。特に身近な存在に対してこの怪物は活発化するからやっかいです。優しき勇者オセロウでさえこの怪物には勝てず、無実の最愛の妻ディズディモーナを絞め殺してしまったのでした。

?「音楽について話す時、一番いい話し方は黙っていることだ。」(シューマン『音楽と音楽家』)…芸術を味わうのに余計なおしゃべりは禁物です。鑑賞において、音楽は聴くものであり、絵は見るものです。まずは言葉には表しがたい感動を大切にしなければなりません。よくコンサート会場や展覧会場などであれこれと蘊蓄(うんちく)をかたむけている人がいますが、そのおしゃべりの言葉が真の音楽や絵の姿を隠してしまっているのではないかと反省してみることが必要です。そういうスノビズムと真の批評とは違うのです。最近に亡くなられましたが、このロマン派の巨匠シューマンの本の翻訳者である吉田秀和さんは数少ない本当の芸術批評家でした。

他にも、この本には1340個におよぶ名言が収録されています。文庫サイズの『ことばの花束』と『ことばの贈物』も図書館にあります。大部な古典の名著はどうも…という人も、こういうかたちで古今東西のすばらしい言葉にふれてみてはどうですか。現在を生きる自分の心に響く言葉に出会えるかもわかりません。本を読む時には、そういう言葉との出会いを大切にしたいものです。

この1冊:第18回 正田ひとみ 『藤原高子』(ロマン・コミックス人物日本の女性史)

今年度、本校の1年生の古典授業では夏休み明けの漢文につづいて、『伊勢物語』を扱っています。『伊勢物語』は歌物語というジャンルに属します。一首もしくは数首の和歌が出てきて、その歌を中心にストーリーが展開していくのです。テーマとしては男女の情愛を描いたものが多く、また在原業平(ありわらのなりひら)という実在の人物を思わせる男性が主人公として登場することが多いのです。その描かれ方も『伊勢物語』では洗練された王朝文学らしい美しさをたたえたものになっています。平安貴族にとってその美はひとつの理想的なもので「みやび」と呼ばれました。伊勢物語は「みやび」の文学です。(本校がある信貴高安のふもとは伊勢物語と業平伝説ゆかりの地でもあります*。)

さて、教材としては「芥川」という章段から読みはじめました。2、3年生も1年時に授業で読んでいるはずですが、ざっとあらすじを紹介します。ある男には長年にわたって思いを寄せて求婚しつづけてきた女がいました。どうしても自分の思いをとげたい男はとうとう女を連れ出して、恋の逃避行をします。途中、激しい雷雨にみまわれた男は女を荒れ果てた倉にかくまいました。ところが、その倉には鬼がいて、女は喰われてしまいます。男はたいへん悔しがるのですが、あとの祭りだったというものです。この「男」というのが在原業平であり、「女」というのが今回とりあげる本の書名になっている藤原高子だと想定されています。「高子」と書いて「たかいこ」と読みます。

高子は藤原氏の中でも当時権勢を誇っていた北家(ほっけ)に生まれました。清和天皇に入内(じゅだい)して、二条后(にじょうのきさい)と呼ばれ、のちの陽成天皇を生んで皇太后にまでなります。その彼女がまだ入内する前に業平と恋仲であったとされているのです。当時はまだ十代半ばの高子と男盛りの業平の恋は、二人の置かれた地位や立場を考えると、とうてい許されるものではありませんでした。業平は王家の血を引く貴公子でありながら低い身分に甘んじさせられていて、藤原氏に対抗する勢力の一人だったのです。この本はコミックですが、たいへんよく調べて書かれた内容になっています。作者の想像によって補われている部分も多く、すべてを史実だとするわけにはいきませんが、業平との許されぬ恋に激しく身を焦がす女性を活写していてあますところがありません。人物描写に血が通っていて、キャラクターの描きわけもていねいにされていると思います。和歌を引いた場合にもわかりやすい現代語訳を付けてくれています。

恵まれた人間が幸せになるとはかぎりません。美貌、才能、家柄に恵まれているがゆえに、人一倍にいろいろな苦しみを味わわねばならなかったのが、藤原高子という女性だったようです。このコミックでの描かれ方とは違いますが、年下の帝に入内して他の多くの妃たちと後宮暮らしをした高子にとって、若き日の業平との恋の思い出は忘れられないものだったのではないでしょうか。とかく艶聞の多かった(敵対する勢力による画策だった可能性がありますが)高子の胸中深くに秘められた面影は誰のものだったのか。入内の後、大原野の氏神祭に后となった高子が出かける際に警護役に任命されたのが業平だったのはいろいろと考えさせられるものがあります。その時の二人の心のうちはどうだったのでしょうか…

 白玉か 何ぞとひとの 問ひし時 露と答へて 消えなましものを

「芥川」に出てくる悲しむ男が詠んだ歌です。(こうなるのであれば)愛しいあのひとが草上に光るものを「あれは真珠なの、何なの」と尋ねた時に、あれは露というものだと答えて、この我が身もその露のようにはかなく消えてしまえばよかったのに…。愛しさ、せつなさ、かなしさ、やさしさがにじみ出る歌ですね。愛の対象の喪失は深い絶望と哀しみをもたらします。実は自分の愛する女性が突然に姿を消すという話は、たとえば『ダンス・ダンス・ダンス』をはじめとして村上春樹の作品にもよく出てきます。というよりも、それは太古の昔から伝わるいにしえの物語の原型の一つのような気がします。日本の神話でもイザナギはイザナミを失ったことを嘆き悲しむのです。「芥川」も愛の対象である異性を突然に喪失する話型のティピカルなものだと思います。神話のような我々の集団的な記憶にある話のかたちが、王朝の雅やかな文化と結びつき、そこに現実の業平と高子の人間模様を溶かし込んだところに、我々が味わう「芥川」の魅力があるように思うのです。

このコミックにとどまらず、生徒のみんなにはできれば対訳本で『伊勢物語」を読んでほしいのです。各章段が短いので読みやすいですし、そこに展開される人と人との関わりからいろいろなものを感じとってほしいと思います。「あづさ弓」という章段など、授業で扱うたびに感情移入して涙を流す女生徒が出るくらいです。もちろん、出てくる単語や文法も重要事項ばかりなので、古典のよい勉強にもなります。入試問題でも和歌にからめて出題されることが多いですし。自分で古典物語の原文を読んでみたいという生徒には、まず『伊勢物語』を勧めています。

*『伊勢物語』「筒井筒」には「高安」の地名が登場する。本校の近くも物語の舞台とされており、様々な業平をめぐる伝承が存在する。たとえば近代になるまで、高安の地の旧家では東向きの窓を作らないという風習があったらしい。実際に、本校の女性教員でも祖母から「つらゆきさん」に見られるから東向きの窓をみながら食事をしてはいけないとたしなめられたという方がいる。「なりひら」が「つらゆき」に変わっているのだが、最近まで伝説が受けつがれていたことがわかる。「筒井筒」を授業で教える時には、業平は奈良の業平道から法隆寺を経て龍田山を越えて云々という話をする。ただし、「高安の女」ははしたなく描かれ、恋に敗れるほうであるが…。現代風の自由な読みでゆくと、高安の女への同情も多いかもしれない。

この1冊:第17回 『学研の大図鑑 危険・有毒生物』

今回はちょっと変わったところで、図鑑をとりあげます。この本は我々人間にとって危険な存在である生物たちを写真と解説文で紹介したものです。特に日本近辺にいるものを扱っています。生物が強い攻撃性を持ったり、有毒になったりするのは、餌をとったり、身を守ったりするためでしょう。それはそれぞれの生物たちが生命を維持してゆくために、身につけているものです。

エコロジカルな観点からは、あらゆる生物生命ができるだけ共存共生してゆかねばなりません。ですから、人間にとって危険だからといって、やみくもにある特定の生物を滅ぼしてしまうのは間違っているでしょう。人間は万物の霊長ですが、その分の責任もあるのです。また、食生活においても、素材となる動植物についての正しい知識を身につけておくことが大切です。できるかぎりの共存共生をはかり、生き物によって危ないめに遭わないためには、人間のほうも正しい知識を身につけなければなりません。

この本は純粋に知的な好奇心から読んでも非常におもしろいと思います。私がこの分野の生物に興味があるのは、幼い頃から虫捕りや釣りをしてきたからです。たとえば、釣りをしていると鋭い歯やエラを持った魚、ヒレや身に毒を持った魚やへびなどに接する可能性があります。ですから、昔からこの手のものはよく読んできたのですが、この本はいままでで一番おもしろいですし、情報量も豊富です。危険度によってA(重症化や死亡する可能性が高いのですぐに医療機関にかかる必要がある)B(場合によっては重症化する可能性もあるので注意が必要)C(応急手当のみで済むことが多い)の三つの段階にそれぞれの生き物が分けられています。

海にいる生物では鋭い歯を持つサメや尾に毒棘を持つエイの仲間が危険なのはよく知られています。しかし、小さな生物、日本近海にいる巻き貝(刺されると呼吸困難になる猛毒のアンボイナガイなど)やタコ(フグ毒と同じテトロドトキシンを持って咬みついてくるヒョウモンダコ)やカニ(スベスベマンジュウガニなど)の類でもAにランクされているものがたくさんあります(このカニは食べなければ大丈夫です。一般的にはツメバサミの部分が黒い種類のカニは食べてはいけないとされています)。磯遊びでも何かなしに見たこともない生き物にさわるのは本当は危険なのです。(裸足で磯辺を歩くのも厳禁です。)たとえば、映画『ニモ』にも「ドリー」という名前で出ていた美しいブルーの「ナンヨウハギ」という魚は背びれの棘に非常に強い毒を持っているのでAランクになっています。海釣りの初心者が知らずに痛い目にあうアイゴゴンズイという魚もいます。

この本には載っていませんが、ウナギも生で食べてはいけません。弱いですが、生の血に毒があるのです。ウナギ料理には刺身はありませんよね。熱を通せば、その毒性は消えるのです。価格高騰ということもあってか、最近、大阪でも天然のウナギ釣りがブームになっていましたが、自分でさばいたりしたあとは、まな板などについた血をよく洗う必要があります。自分で獲ったり釣ったりした魚を食べるときには、一応図鑑やインターネットで調べるべきです。特に、あまり見たことのないものについては、きちんと調べましょう。一般的な姿をしていても、身の中に寄生虫がいるので、よく熱を通さなければならない魚もいます。(バラエティ番組の無人島サバイバルなどでも、自分で獲った魚を食べる場面が出てきますが、あれもきちんと専門家のアドバイスを受けているはずです。そこでよく食べられているアオブダイなどは大きな成魚になると、肝臓にシガテラ毒を持つものが出てきます。)

虫の世界では蜂でもスズメバチの仲間はすべてAですが、その他はBもしくはCになっています。ただし、アレルギーのショック症状が出る人がいるので、BやCの蜂でも用心するに超したことはありません。(幼い頃にカブトムシを獲りに行って大きなスズメバチに追いかけまわされた経験があるので、私も蜂は大の苦手ですが、この虫と人間とのつきあいは長くて、人類の食文化や生物界の食物連鎖という観点からはなくてはならない昆虫ですね。)

日本にもサソリがいることを知っていますか。2種類いるのですが、大きい方は7㎝ほどになります。我々はサソリというと猛毒で、あの尾の針で刺されると命が危ないと思っていますよね。出会ったらパニックになりそうですが、日本に生息する2種類のサソリとも毒性は弱くてランクはCになっています。(ただし、輸入された木材等を経由して入ってきたものは要注意です。)

最近、日本でもセアカゴケグモが繁殖していることが問題になっています。特に関西に多く、幼い子どもたちが遊ぶ公園などにもいるので困ったことです。この本によると、「α-ラトロトキシン」という神経毒を持っているそうです。咬まれると、激しい痛みに続いて、ひどくなると呼吸困難、脱力感、頭痛、不眠などの症状がでるそうです。このクモ1匹でマウス7匹が死んでしまうほどの強毒です。ランクはBになっていますが、万が一でも、咬まれたらすぐに病院に行かなければなりません。(クモに咬まれたら、どんな特徴があったかを覚えておく必要があります。)赤い斑点がある綺麗な小さなクモを見つけたら、近づかないようにしましょう。そして、すぐに大人に報告してください。

植物でも園芸種の球根の類を誤食することが危険なことは知られていますが、この本では我々がよく口にする梅、桃、杏(あんず)もAにランクされているので驚く人も多いのはないでしょうか。何が危険かというと、これらの植物の「葉」「未熟果」「核種子」には強烈な酸が含まれているのです。ですから、特に青梅は生で絶対に口にしてはいけないとされています。また、「硬い種子を割って、内部の軟らかい部分を食べることは非常に危険である」と注意されています(いい香りにつられて幼い子どもが生で梅をかじったり、大人でも桃の種子の中の白い部分を食べようとしていたりしていたら、注意してあげましょう)。古来、日本や中国の民間伝承で梅や桃に邪気を払う力があるとされるのは、この性質が邪悪なものを撃退するとされたからでしょう。我々の食生活に欠かせないこれらの食材に対しても正しい知識を身につけておく必要があるということです。

他にも図書館にはいろいろな種類の生き物の図鑑があります。生物の多様性に親しむのも人生の大きな楽しみではないでしょうか。これは大部な本なので持ち歩くわけにはいきませんが、興味がある人は図書館で読んでみてください。

この1冊: 第16回 俵万智『サラダ記念日』(河出文藝文庫)

   「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智と言えば、『サラダ記念日』という作品名の由来になったこの短歌が有名です。たしかに強いインパクトを持つ歌ですが、それだけが少々有名になりすぎた感じがします。

   「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
   また電話しろよと言って受話器置く君に今すぐ電話をしたい

これらの歌もその当時はとても清新な感じを与えたものです。しかし、こういう歌のイメージだけが作者の本質だと思いこまれ、「重みがなくて浮薄だ」だの「誰でも詠める」などという批判もされてしまったようです。この作者にはしっかりとした語彙の知識と日本文学についての教養があり、それが奥行きと深みを与えている歌がたくさんあります。

   あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である

  百人一首を覚えている人ならば、この短歌を見て必ず思い出す和歌があるはずです。

   逢ひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり( 藤原敦忠) *

敦忠の歌は、恋が成就した後にいっそうつのる相手を思う切なさを詠んだ後朝(きぬぎぬ)の歌です。それを俵万智はさりげなく現代の恋愛歌へと読み替えています。これは「本歌取り」という技法なのですが、百人一首を知っている人は俵万智の短歌を味わうときに、敦忠の歌の意味を同時に思い浮かべてしまいます。恋がはじめて実ったこの夕暮れ時には、いとしい「君」の姿しか私の目には入らない、他の風景はあるけれどもそれはすべて「君」あってのものなのだ。一見、「君」という呼称や「である」という客観的な末尾表現によって(たとえば「君」を「あなた」に、「である」を「がある」に変えると主観が勝った歌風になります)、また音にして詠んだときの響きによって、歌の姿は平静を装っているのだが、しかし内心では恋の情念の炎がめらめらと燃えている。逆に言えば、恋愛の絶頂期でさえ、そういうあり方を透徹したまなざしで見る自分がいるということでしょうか。恋の思いに身を焦がしながらも理智的な自分はその人の色に染まる景色と自分をとらえている。これはそういう女性の気持ちをうまく表現した短歌だと私は思います。王朝の恋の表現と現代の恋心が一つの短歌の中で純粋なハーモニーを生み出している。それは人を思う気持ちには昔も今もないからでしょう。

   同じもの見つめていにし吾と君の何かが終わってゆく昼下がり

これは激しく燃えていた恋心にやってくる退潮の予感を詠んだ歌です。一つだと思っていたふたりの心が別々になってゆく哀しみを漠然と不安に感じている。「昼下がり」というのはふたりの恋心もあとは頂点から下がってゆくばかりだという感じを出すのに効果的な表現ですね。明確な言葉にはならない「何か」、二人にしかわからない大切な「何か」が「終わってゆく」。なんとなく消えてゆくのではありません。その恋には喜びに満ちた始まりがあったからこそ、それだけせつない終わりがあるのです。この短い歌のなかに強い感情のドラマが静かに凝縮されています。歌においては微妙な表現の差異が、大きな意味あいの違いを生むのです。この歌にも「~にし」という文語が用いられています。完了の助動詞「ぬ」連用形と過去の助動詞「き」連体形の組み合わせです。完了と過去の組み合わせですから、そのことが過去のある時点で完全に終了してしまったこと、取り戻すことができないのだという感じをあらわします。単純な過去や完了ではないのです。もはや二人で同じものを見つめるという状態は過去のものとして完了してしまったのです。その響きがとどめられない事態と時の流れを感じる「吾」の「哀しみ」にキリッとした緊張感を与えていると思います。

私の尊敬する江戸時代の本居宣長という学者は、「歌は言辞の粋」だと言いました。人にとって大切な「もののあはれ」を知る心の純粋な表現が和歌なのである。日本人は長い歴史をかけて五七五七七の歌形式に自分の思いを詠んできました。その短歌でさえ文語使用の壁によって、普通の人々の生活感覚から離れてしまおうとしているときに、俵万智はもう一度短歌をわれわれに親しみのあるものに変えてくれました。そのことを短歌の調子を低くしたと批判する向きもありますが、私はむしろその功績ほうに大きなものがあると思います。

最後に俵万智が国語の教師として神奈川県の高校で教えていたときのことを詠んだ短歌をいくつかあげておきましょう。この二首目などは教師の視点から見た学校生活の叙景歌としては秀逸だと思います。嗅覚を形容した「ほのぼの」という古雅な表現と近代的な「微分積分」という硬い数学用語の対比が効果的です。四首目は茶目っ気にあふれた、若い女性のはつらつとした学校での教師生活がうかがえる歌になっています。

   薄命の詩人の生涯を二十分で予習し終えて教壇に立つ
   シャンプーの香をほのぼのとたてながら微分積分子らは解きおり
   数学の試験監督する我の一部始終を見ている少女
   万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

俵万智の短歌は実作のための良いお手本になるでしょう。高校生のみんなも自分の思いや感動を短歌のかたちにしてみてはどうですか?

*藤原敦忠の歌について…『拾遺和歌集』「恋二」所収のかたちでは、第四句が「昔はものも」となっている。こちらのほうがより相手を思う内面の屈折率が高まるように思う。しかし、ここでは、よく知られた百人一首に収められたかたちでとりあげた。

この1冊:第15回 切通理作『宮崎駿の〈世界〉』 (ちくま文庫)

大学入試現代文の出題では完全に評論が主流になっています。実際に見ればわかりますが、しかも相当に長い文章が問題文として出されることが多いのです。国語の教師として3年生の生徒から評論文対策を尋ねられるわけです。求められれば、即効性のある対処療法的なアドバイスを一応はします。しかし、その底力は本格的な評論を何冊かしっかりと読み通すことでしか養われません。

 入試評論文が難しいと感じる原因にはいくつか考えられます。この際ですから、少し分析してみましょう。

①評論文に苦手意識を持っている
②文章自体が難しい
③扱われている対象について興味がなく、よく知らない

①は心理的な問題です。これは評論というものに対する偏見をただして、順序立ててそれなりの数の問題をこなしてゆけば、克服できることが多いのです。現在の日本語で書かれているためにおろそかにされがちですが、入試対策では現代文分野でもパターン化された解法を身につくまで練習することが大切になります。

②については今はそんなに極端な難文は出題されない傾向にあります。今でも著者の文体そのものが難解な言い回しを用いている場合もありますが、使われている漢字や用語についての知識(語彙力)が不足している場合のほうが多いようです。その場合、私はまず生徒に「現代評論用語」を覚えさせています。

③については、自分の興味関心のある分野の評論を読むようにアドバイスします。今はあらゆる分野で評論が出ている時代です。特に、サブカルチャーと呼ばれる方面での評論は非常に盛んになっています。生徒には「JPOP」「アニメ」「スポーツ」の評論もある、どれか好きなものはあるかと訊きます。たとえばサッカーが好きならば有名な選手の評伝を、AKBが好きならばアイドル文化論を、という具合です。今回とりあげるのは、宮崎アニメについての評論です。

 著者は宮崎アニメの『風の谷のナウシカ』から『崖の上のボニョ』までを対象として論じています。これは本格的な評論です。しょせんアニメについてだろう、という見方を持った人が読めば驚くと思います。宮崎アニメには様々な要素が含まれています。自然と人間の共生、種族や立場が異なる人間同士の差別や偏見の問題、人間存在そのものの不思議さ、日本文化と日本人の本質…。そういうスケールの大きい宮崎アニメを論じるということはその作品のみならず、それらのテーマや問題を分析し、考察することにもなるのです。

 たとえば、『千と千尋の神隠し』での「汚さ」へのこだわりの背後には、どろんこ遊びが好きな子どもの心理もありますが、合わせて「けがれ」と水によるそのカタルシスという日本文化の特徴的な点もあると指摘されます。また、あの部分を映像論という視点からも論じることが可能でしょう。

 評論文の読解には「知識を身につける」という面もたしかにありますが、むしろ「知識を深める」という面のほうがより重要になります。すでに知っていると思いこんでいたことについて、あたらしく発見するような見方を教えられる。我々がふだんはめてしまっている「一般常識的なものの見方」という「色めがね」をはずして、対象と直に向き合うことの大切さを学ぶ。知識が深くなると、世界が広がり、自分の内面も豊かになるのです。

 たとえば『もののけ姫』に登場する「アシタカ」という青年は大和政権に追われたアイヌの一族の者であり、あの映画に登場する人々が中世の動乱に中で差別や偏見を乗り越えて人として必死になって生きる姿には、数々のメッセージ性がたたえられている。タタラ場で働いていた全身を包帯で巻いていた人々はいったいどういう人たちであり、高下駄をはいた「ヒコボウ」という男の正体は何なのか。もちろん、それらのことを知らなくても、あの映画を楽しむことはできます。しかし、それを知ることは封印されるように埋もれてきた人々の歴史の真実に出会うことになるのです。

 私もこの本からいろいろなことを教えられました。宮崎作品を見たことのある人なら、うんうんなるほど、と言った感じで読めると思います。なにしろ、登場するのがなじみのあるキャラクターばかりですから。

この1冊:第14回 中村健之助『ドストエフスキーのおもしろさ』(岩波ジュニア新書)

現代の日本では文学自体が低調なので、「文豪」という言葉もあまり聞かなくなりました。たとえばわが国では夏目漱石や森鴎外などが文豪と呼ばれます。ロシアの文豪といえば、やはりトルストイとドストエフスキーでしょう。今回はドストエフスキーについて書かれた本をとりあげます。本当は小説を読んでほしいのですが、この作家のおもしろい作品は非常に長いのです。それに、同じ登場人物なのに複数の呼称が使われるので、読み慣れないとなかなかおもしろさがわかるところまでいきません。(私も最初は戸惑いましたが、再読したときには完全に作中世界に引き込まれて、その魅力にとりつかれました。)

 そこでコンパクトに興味深くその文学的特徴をまとめた新書をとりあげるわけですが、若いうちに機会を見つけて一度はいまだに世界文学の最高峰と言われるドストエフスキーの大作を読んでほしいと思います。ちなみに個人的に好きな順番をつけるとすれば、1位『白痴』2位『罪と罰』3位は迷いますが『悪霊』で4位が『カラマーゾフの兄弟』といったところでしょうか。

 文学は基本的に人間の真実の姿を描くものです。人間生活には明るい面もありますが、暗い面もあります。心身における汚さ醜さ、性格のずるさ悪さ、環境や自分自身から発生する苦しみ、異常なものごとに遭遇した恐怖など、日常生活で我々はなるべくならそういうものには触れたくないと思っています。ところがドストエフスキーの文学はそういう人間の暗い真実を描くことを本質としているのです。ですから、この作家の作品を読んで心が晴れ晴れとすることはまずありません。そのかわりに、まさしく人間の多様な真実に目を開かれる思いがします。ごく普通の生活を送っている人間の内面にどれだけの心の闇が、精神の深淵が広がっていることか。

しかし、目をそらしたいと思うような人間の弱さや醜さをドストエフスキーの作品で読んだときに、不思議にも我々のうちに目覚めてくるのは弱さを持つ人間という存在への寛容な気持ちです。それは、作中で愚かな言動をしている人々は自分の拡大された似姿ではないか、ということに気づくからに他なりません。まとめて言えば、一人ひとりの人間には醜くて弱いところがある、でも、それをお互いにわかったうえで共に生きてゆくのが人生なのだ、ということになるでしょうか。高みに立ったモラルの提唱も必要かもしれませんが、いったんはフィクションを通して人間存在の底辺に触れておくことも大切です。そこから立ち上げられる共感共生の思いだからこそ、しなやかで強靱な真の人間同士のつながりを生むのではないかと思います。本当の文学は不思議なことに連帯を生むのです。孤独な読書の楽しみが、人間の輪を形成してゆくのです。

 この本の筆者はドストエフスキーの短い「言葉」を作品などから選んで、それに関連した作家自身や作品中のエピソードを紹介した文章をつけています。

 「わたしは、人間のいびつな、悲劇的な面をはじめて明らかにしたということに、誇りを感じている。」(『ノート』より)

 これが一番最初にとりあげられている言葉です。どちらかといえば、集団になじめない、しかも他人の評判を気にする過敏な自意識を持った人間が、心密かに自分がヒーローになるというとんでもない空想を抱いたりする。そういう、いびつで悲劇的な性格の「あこがれ」人間がドストエフスキーの作品には出てくるというのです。しかし、多かれ少なかれ、我々にもそういう面はあるのではないでしょうか。

 社会の片隅に暮らす人間、普通の社会生活を送る人間の内面に潜む大きなドラマを描いたところに、ドストエフスキーの偉大さがあるのです。

 この本の巻末にはドストエフスキーの主要な作品のあらすじ解説がついています。おもしろそうだと思った作品にチャレンジするには大変便利です。

この1冊:第13回 茨木のり子集『言の葉』1~3(ちくま文庫)

今の日本の若い人たちは詩集をあまり読みません。授業で「詩」を扱っても、おもしろいストーリーの展開があるわけでもなく、内容的に何か知識が身につくわけでもない「詩」を読む意義がわからない、という感じです。

ところで君たちは絵を見たり、音楽を聴いたりするときに「これは何か役に立つかな」と思って鑑賞するでしょうか。「嵐」でも「AKB」でも、好きなポップスを聴くときに、「何か得をするから」と思って聴きはしないでしょう。我々はそれが好きであり、それを聴いて楽しいから聴くのです。「詩」もそうであって、詩の言葉は何かの役に立つために使われているのではありません。

 自然の美しさ、恋の苦しみなど何かに対して感動した作者の心が「言葉のかたち」をとって表されている。その「言葉のかたちとなった感動」を読んで、我々も心を動かされる。詩を読んで何かできるようになるわけでもないし、知識が増えるわけでもないが、詩は私の心を豊かにしてくれる。感じる心を育んでくれる。人としての感性が磨かれ、心が豊かになる以上にすばらしいことがあるでしょうか。他の人の気持ちがよくわかるようになり、物事の味わいが深くなってゆくのです。民族の言葉で作られてきた多くの詩歌は自然と我々の心を育んでくれるものなのです。

 効率や利益ばかりで物事の価値を判断することを功利主義といいます。日本社会の功利主義的風潮には拍車がかかるばかりですが、そのぶん日本人の心がどんどん貧しくなっていっているのではないでしょうか。できれば、自分の好きな詩人をみつけて、折にふれてそれを楽しむようでありたいものです。

 茨木のり子の詩は高校の教科書にもよく収録されます。わかりやすい言葉を用いていますが、表現は豊かで、訴えかける力には強いものがあります。読んでいると自分の人生を背筋をピンと伸ばして、しっかりと歩んできたひとりの女性の姿が思い浮かぶようです。詩を解説するのは音楽を言葉で語るのと同じく、難しいものです。この詩人らしいフレーズを一つとりあげることでその表現の一端を味わってみましょう。

  「握手」より

 手をさし出されて/握りかえす
 しまったかな?と思う いつも/相手の顔に困惑のいろ ちらと走って
 どうも強すぎるらしいのである/手をさし出されたら
 女は楚々と手を与え/ただ委ねるだけが作法なのかもしれない

  ああ しかし そんなことがなんじゃらべえ
 わたしは わたしの流儀でやります

 自分のあり方は世間一般のそれとは少し違うかもしれないけれど、わたしはわたしの生き方を貫くのだという思いが、ユーモアを交えてさりげなく、それでいて見事に「言葉のかたち」となって表現されていると思いませんか。若者の自立心を芽生えさせ、育てるのは勇ましいスローガンや声高い説教でしょうか、それともこういう詩の言葉を味わうことによってでしょうか。大人たちもよく考えてみる必要があるかもわかりませんね。

 『言の葉』には彼女の詩だけではなく、エッセイも収められています。

この1冊:第12回 梅原猛『隠された十字架』(新潮文庫)

高校生でも一度は奈良斑鳩の法隆寺には行ったことがあると思います。たいていは小学校の遠足ではじめて行ったという人が多いのではないでしょうか。最古の木造建築があり、たくさんの国宝がある寺ということで、行くわけです。印象はどうだったでしょうか。自分の経験を振り返ってみても、小学生のときには「ふーん、これが法隆寺か。なんや古びた建物ばっかりやなあ。」というくらいの感想の人がほとんどではないかと思います。

 いろいろな文化財と言われるものや、美術品を見慣れ、日本の歴史をよりくわしく学んだうえで、もう一度、いや何回か法隆寺を見直してみて下さい。最近は国宝を収蔵した新しい建物もできたりして、昔のあの懐かしい雰囲気の一部がモダンになったりしていますが、それでも五重塔にしろ金堂にしろ、あるいは仏像たちにしろ、そのすばらしさをしみじみと味わわせてくれます。はるかな歴史の美しさが「かたち」となって我々の目の前に存在している、あるいは古(いにしえ)の飛鳥びとのたましいが我々現代人のこころになにごとかを語りかけてくれる。我々も意識してそういうひとときを持って、美と歴史に関する自分の感性を磨きたいものです。

 さて、梅原猛の『隠された十字架』はその法隆寺建立のいきさつを追究した本です。十字架とあるので、出版当時高校生だった私はキリスト教関係の本かと思っていたのですが、そうではありませんでした。これは聖徳太子およびその一族と法隆寺の関係について書かれた本だったのです。

法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるために建てられた寺である、というのが著者の考えです。著者はそのことを証明するために綿密な実証を積み重ねてゆくのですが、それがとてもスリリングでおもしろい。背後に浮かびあがってくるのは、当時の藤原氏を中心とした権力闘争が生み出す聖徳太子一族の悲劇です。また、たとえば著者の哲学的直観は聖徳太子等身像といわれる救世観音こそが太子の魂を呪縛するためのものであった、それゆえにこれは近代に至るまで秘仏だったのだ、と告げたりするのです。

  梅原猛氏の歴史についての考え方は「怨霊史観」と呼ばれるもので、為政の勝者が敗者を祀るのがわが国の歴史の原動力である、というものです。「まつりごと」でまつられるのは、敗れ去り、滅ぼされた者たちである。これはたいそうおもしろい見方であり、現在ではこの考え方に影響を受けたたくさんの歴史についての本が書かれています。その後にいろいろと研究が進み、ここで法隆寺や聖徳太子について書かれた内容のなかには実証面でも否定されている部分があります。それに現在では歴史的には聖徳太子というよりも厩戸皇子(うまやとのみこ)という呼び名のほうが一般的なようです。しかし、この本が読み手をぐいぐいと引っぱってゆくデモーニッシュな魅力を持っているのは確かですし、血が流れるような歴史の脈動を感じさせるのは今でも変わりません。この著者の本は真実への強い希求を表現する情熱的なうねりを持った独特の文体で書かれています。

日本の歴史に興味がある人に推薦します。この本を読んでから法隆寺に行ってみてください。目から鱗が落ちたように、とてもワクワクするにちがいありませんから。

この1冊:第11回 『日本人なら知っておきたい日本文学』(幻冬舎)

題名だけを読むと、いわゆるカタい日本文学の解説書と思ってしまいます。しかし、中身は日本の古典文学を扱ったコミック新書です。古典の作者やその登場人物で個性的なキャラクターを9人とりあげて、漫画とエッセイで愉快に紹介したものです。この手のものにはおもしろさを追求するだけで、内容がずいぶんとお粗末なものがあります。けれども、これはきっちりと古典の内容を押さえたものになっています(現代風に相当デフォルメされていますが)。

実は古典作品は現代のサブカルチャー文化にも大いに影響を与えています。たとえば、宮崎アニメの名作『風の谷のナウシカ』のヒロインは堤中納言物語の「虫めづる姫君」にヒントを得て、造型されています(宮崎駿自身が述べています)。きっかけはどのようであれ、とにかく古典の世界に興味を持ち、親しみを持つことがまず必要だと私は考えています。

読んでいておもしろい。私も何度か笑ってしまいました。それに、人物の画がかわいらしくて、キュートです。清少納言など「えっ、授業で扱っているイメージとちがうけどなあ…まあ、かわいらしいからいいかな?」とおカタい国語の教師に思わせるくらいです。

画を紹介することはできないので、人物たちのキャッチコピーをいくつか採りあげて載せておきます。それぞれ誰のことだかわかりますか。

①〈 言いたい放題 〉
②〈 ぐるぐる悩む 〉
③〈 イケメン戦隊の司令官 〉
④〈 夢見るオタク少女 〉
⑤〈 脱サラ・フリーランサー 〉

正解は①清少納言②紫式部③源頼光④菅原孝標女⑤兼好法師です。たとえば、鬼退治で有名な③源頼光の漫画では彼にしたがった「四天王」と呼ばれた屈強の武士たちがカラーレンジャーになぞらえられています(レッド役が渡辺綱といった具合です)。「皆きらきらしく魂太く愚かなる事なかりけり(それらの若者はみんなきらびやかで見た目もよく、勇敢で文句のつけようがなかった)」と実際に今昔物語集に出ているからです。

その他、清少納言や紫式部、藤原道長などの章での人物同士のやりとりなど、軽快で非常に上手に描いてあると思います。エッセイ部分を担当している海野凪子さんは外国人向けの日本語講師をしている方ですが、途中にはさんである日本文学にまつわる四コマ漫画にもそれが反映していて笑えます。芥川龍之介『羅生門』には魚を蛇だと偽って売ることを「悪」だとする場面が出てきますが、ある外国人生徒に「蛇は美味しいのになにが悪いことなのかわからない」と言われたそうです…

前回紹介した『光源氏の一生』などでも、まだ古典の世界にとっつきにくさを感じる人でも、この本ならばまず大丈夫でしょう。これを読むだけでも、古典の教養と知識がけっこう身につくと思います。本校図書館には古典関係の親しみやすい入門書がたくさんあります。ぜひとも活用して、すばらしい日本古典文学の世界に親しんでください。

この1冊:第10回 池田弥三郎『光源氏の一生』(講談社現代新書)

 古典の時間、生徒にその年度で『源氏物語』を最初に教える授業のたびに、私は軽い興奮を覚えます。いよいよ、この子たちにわが国最高の文学作品を紹介することになるのだ、と力が入ります。高校の古典では『源氏』が出てくるのは二年生になってからです。

 まずはじめに、生徒に言うのは、『源氏』はこれまで君たちが読んできた「古文」とは文学的に質が違うものなのだ、ということです。物語に限定すれば、一年生の間に読むものは、ストーリーや人間描写の点で単純なものがほとんどです。(言葉自体が慣れないものなので、それは仕方がありません。)『源氏』はその点で、はるかに複雑です。そして、奥が深い。ヨーロッパで本格的な長編小説が書かれだすのは500年後なのですが、近代に入って、欧米の文学者たちが極東のはるか昔の一人の女性の手によって、このようなすばらしい作品が書かれていたことを「発見」して、驚いたのも無理はありません。

 『源氏』の主人公は言うまでもなく光源氏です。光源氏というと、どうしても女性遍歴を重ねる浮薄な男というイメージを抱く人が多いようですが、彼はけっしてそのような軽々しい男性ではありません。彼は精神的に彫りの深い、陰影に富んだ内面を持つ人物です。たしかに「色ごのみ」の力によって、多くの女性たちと交渉を持ちます。そして、女性たちは一様に大変な苦しみを味わいます。しかし、彼女たちはその死ぬほどの苦しみと引き換えに「女性」としての自分にめざめ、自分たちがこの世にどうして女性として生まれてきたのか、ということを深く了解するのです。それと同時に光源氏自身も大変な苦しみを覚え、より人間的に大きくなってゆきます。また、光源氏は権力を獲得してゆく面でも芯の太い、強い政治力を発揮してゆくのです。これほど深くて複雑な魅力を持ったキャラクターはなかなかいません。

 池田弥三郎の『光源氏の一生』はそういう光源氏を中心に据えて、『源氏』のストーリーのエッセンスをまとめたものです。(したがって、光源氏があまり活躍しない場面や、その死後の世界は扱われていません。)大変わかりやすい文体で書かれています。最初のほうを少し引用してみましょう。

 「その年は、光源氏にとって、さびしいお正月でした。
去年の秋、最愛の妻が、光源氏をあとにのこして、先立ってしまったからです。」

話はこのあと、光源氏の父帝と母更衣の出会いと別れへとさかのぼってゆきます。私自身も大学生の時に、この本によって『源氏』の梗概をつかんだことがその後大いに役立っています。最近では、『源氏』入門書として、漫画を駆使したものなど様々な本が出ていますが、この一冊がとても親しみやすくて、すぐれた『源氏』への、そして古典文学への入門書であることは変わりありません。新書として1964年に発行された本書が70刷を重ねていまだに読まれつづけていることによっても、それが証明されていると思います。

 

この1冊: 第9回竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書)

人間にとって、自分を含めた人間存在ほど謎に満ちたものはありません。古来、東西の思想家たちが人間について様々な考えを述べてきました。思春期から青年期にかけては自意識も強くなり、内面に苦悩を抱え込みやすくなります。そういう時、原理的にしっかりとものごとの本質を考えることで、ものの見方が的確になり、自分についての思索も深まるはずです。ですから、高校生であってもできれば哲学書に親しんでおくのがよいと思います(それに、大学入試の評論問題では、思想哲学関係のものが頻出しますしね)。

しかし、いざ、勧めようとすると、彼ら彼女らが自分で完読するのに、適当な内容と文章レベルを持ったものがなかなか見あたりません。それでも、何冊か良いと思うものがあります。今回はその中から一冊を紹介します。

著者の竹田青嗣さんは大阪府出身です。現代思想をわかりやすく解説する方として有名です。彼は自分が在日韓国人であることをめぐって、思春期頃から大きなアイデンティティの危機を経験しました。(本名、日本名、通称、ペンネームというふうに、多いときには四つの名前を持つこともあったようです。)内面の危機を克服するために、彼は哲学書を読んでみるのですが、難しくてわからないために、哲学を嫌うようになってしまいます。大学を卒業してからも、定職に就かず、井上陽水の歌を心のささえにして、ボイラーマンのアルバイトを数年間つづけました。20代の半ばには悪夢や金縛りにひどく悩むようになりました。いわゆる不安神経症です。

 そういう竹田さんでしたが、精神分析学と現象学に出会って、劇的に「思想」に目覚めるのです。社会の抑圧的な権力と結びついた「専門的な知」を乗り越えるのが、現実の生活場面から立ち上がった「思想」である。以後、柔軟な思考を特徴とする竹田哲学の書物がたくさん書かれてゆきます。(いわゆる「在日問題」のなかに、「日本の文学や思想が抱えているすべての問題がやはりそのまま含まれている」という認識にも達します。哲学的思考は個別の問題のなかにも普遍的な問題性を見いだす好例です。)

 この本は竹田さんが若い読者のために自分の考えをわかりやすく綴った新書です。岩波ジュニア新書にも『哲学ってなんだ』という高校生向けのものがありますが、それよりももう一段かみくだいた内容になっています。全体は四つの部分に分かれています。少しずつポイントを紹介しましょう。

Ⅰ 自分とは何者か…ここでは竹田さんが自身の若い頃を振り返って、神経症克服の経緯や若者が抱える心の問題を分析しています。高校生にとても参考になる部分です。
Ⅱ 世界はどうなっているか…主に宗教とのちがいに焦点を当てて、哲学の特質を解説しています。基本的に「物語」のかたちをとる「宗教」に対して、哲学は「概念」と「原理」を使うのです。入試の現代文評論読解のための、とてもわかりやすい入門案内にもなっていると思います(まず哲学や思想の基本的な枠組みを知ることが大切なのです)。
Ⅲ なぜルールがあるのか…ここは竹田哲学の真骨頂にあたります。社会とは様々なルールの束によって形成されたものである。人生とは欲望欲求をめぐって自分と他人の間で行われる「ゲーム」のようなものだ。社会のルールを知らなかったり、守れなかったりする者はその人生というゲームに参加できないのです。これだけで、社会の仕組みがすべて理解できるわけではありませんが、その基本的なところをうまく説明しています。
Ⅳ 幸福とは何か…この本の副題にもなっている「自分の意志を持つこと」がとりあげられます。多くの人が抱く社会的な欲望を「一般欲望(たとえば、高い地位について、高級な住宅に住みたいなど)」と言います。それをしっかりと吟味して振り回されないようにし、自分固有の目標を見いだし、それに向かうこと。他人の欲望になびかずに自分の意志で人生を歩むことが幸福の条件だということです。

 高校生が自分のものの見方について考え、作りあげるための哲学入門書として推薦します。

この1冊:第8回 柳田國男「遠野物語」(ちくま日本文学全集所収 文庫サイズ)

今回は日本民俗学の巨人である柳田國男の「遠野物語」を紹介します。柳田國男は日本で民俗学という学問を創設した人です。たとえば、この分野が先行したヨーロッパにはキリスト教以前の宗教信仰の形跡はほとんど残っていませんが、わが国には明治にはまだまだたくさんの豊かな信仰形態が残っていました。柳田はそれらをきちんと後世に学問として伝えていかなければならないと考えたのです(ですから、柳田は政府の統制的な宗教管理に強い異議を唱えました)。また、若い頃、有能な農政官として日本の農業の実態を見聞したことは、農耕民族としての日本人のアイデンティテイを研究する道を切り開いてゆくことになりました(いわゆる「常民」文化の研究です)。

「遠野物語」は佐々木喜善という人が語った遠野地方に伝わる言い伝えを書きつづったもので、学問としての民俗学の研究書ではありません。若い柳田はみやびな雅語でこの書物を書きました。その結果、あの三島由紀夫をして凡百の小説よりもはるかにおもしろい真の文学だと言わしめたほどの作品になりました。ここに記されていることは、遠野という一地方の伝承にすぎないのですが、その不思議な話の数々は、日本人の懐旧のロマンをかきたててやみません。座敷わらし、かっぱ、山オオカミ、山男、やまんばなど、我々にもなじみのある精霊たちが出てきて、読み手を豊かな幻想の世界に導いてくれます。

「山々の奥には山人住めり。」
「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。」
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。」
「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。」
「川には川童(かっぱ)多く住めり。」

欧米列強の後を必死に追いかけて、近代化を図ることばかりにかまけている日本人の姿は柳田國男にとって情けないものだったのでしょう。日本の古い世界など時代後れの遺物だと侮って、目新しい異国文化にばかりうつつをぬかしている都会人たちというのは、なにやら現代にまでつながる姿です。柳田は序文でつぎのように述べています。

「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」

これらの話を語り伝えて、都会に住んでいる連中を震えあがらせてやりたい、というのですから、ずいぶん強い語調です。この本には「遠野物語」以外の柳田の代表的な文章もたくさん収められています。日本人が自分たちのアイデンティテイを探しつづけるかぎり、柳田國男の文章はこれからも読み続けられるでしょう。

*「遠野物語」の原文は歴史的仮名遣いで書かれているが、この本では現代の仮名遣いに改められている。筆者は必ずしも賛成ではないが、引用文の表記はそれにしたがった。

この1冊:第7回 山田詠美『晩年の子供』(講談社文庫)

これは作者の短編集です。主人公は小学校4年生をはじめとする十代の少女たちです。少し前までは、子どもにとって「夏休み」というのは毎年訪れてくる人生の通過儀礼でした。学校がある日常生活とはちがう非日常性を生きるのが夏休みだったのです。「死」というものとの直面、恋に結晶する前の出会いや別れなど、少女たちはそこで大人に言ってもなかなか理解してもらえないような内面の経験をしてゆくのです。作者の山田詠美はみごとにそれらの少女たちの世界を描いています。それは彼女自身が柔らかな感性でその世界をもう一度生きているからでしょう。「心を痛めることも、喜びをわかち合うことも、予期しないときに体験してしまうのを、私は、その頃知った。…希望、絶望、後悔などの記憶。そこには、季節ごとの空気が匂い立ち、私の心をやるせなくさせる。」と後書きでも述べられています。

小説は書き出しの部分が大切です。特に短編では、それでその作品の雰囲気が決まってしまうのです。収録されているものからいくつか引いてみましょう。

「私は、かつて晩年を迎えたことがある。…あの時、私は十歳だった。そして、残された日々をどうしたら良いのか途方に暮れていた。」(「晩年の子供」)

「私は、自力で何かをするという才能に恵まれていない。それが私の劣等感を形作っている。…私は、いつも、すべてを諦める。私には、能力以上に発揮出来ることが、何ひとつとしてないのである。」(「堤防」)

「男と女の世界は、どうやら、おとぎ話のように簡単には行かないものらしいと私が悟ったのは、小学四年生の頃でした。」(「迷子」)

「?のおなかの中に何が入っているか知っていますか?実は何も入っていないのです。本当です。だって、私は、?のおなかをちぎってみたことがあるのです。」(?」)

どうでしょう。それぞれの語り手が十代の頃の自分を回想してゆくのですが、大人になっても自分の存在の核はあの夏の経験によって形作られている、という思いがこれらの作品の叙情性を生み出しているように感じます。

この中の「海の方の子」「ひよこの眼」という作品は教科書にも収録され、前任校の現代文の授業で扱ったことがあります。その時は生徒たちの共感を非常に呼び、特に女子からの反響は大きかったと思います。文庫を買って全編を読んだ生徒も少なからずいたようでした。作者には『ぼくは勉強ができない』『放課後の音符』『風葬の教室』などの学校ものの中編もあるのですが、ある男子生徒はそれらを読んですっかり詠美ファンになっていました。

本校図書館には単行本と文庫の両方があります。

この1冊:第6回 『ちくま日本文学全集 宮本常一』(文庫サイズ) 

今回は民俗学者の宮本常一(みやもとつねいち)を紹介します。民俗学とは、人々の生活の中に伝えられてきた現象をとりあげて、日本文化の本質を明らかにしようとする学問です。それは形ある物とはかぎらず、語り言葉や風習を通じて伝承されてきたものを含みます。民俗学は端的に「生活の古典」とも呼ばれます。代表的な民俗学者に、柳田國男、折口信夫、南方熊楠などがいますが、宮本常一も独特の民俗学を築きあげた人として有名です。

宮本常一は瀬戸内海にある山口県周防大島の貧しい農家に生まれました。生家の暮らしは大変慎ましいものでしたが、聡明で感受性の鋭い常一少年は島の暮らしのなかで自然、伝承文化、生活の豊かな経験を積み、それは後の宮本民俗学の礎になりました。常一少年は15歳の時に大阪に出て、郵便の勉強をはじめます。17歳のときには、郵便局員として働きはじめ、同時に天王寺師範学校の二部に入学して教師になる勉強もします。宮本は苦学して、自分の人生を切り開いてゆきました。のちに、まず泉南郡の小学校教師になるのですが、子どもたちをつれて、地域の民俗遺産をたくさん見て歩いたそうです。それ以降、宮本は柳田國男や渋沢敬三といった人たちと出会うことで、民俗学の世界に深入りしてゆきます。以後、宮本はその情熱を日本民俗学のために注ぎ込んだのでした(記録によると、本校近くの中河内地域にも調査に来ていたようです)。

宮本民俗学の真骨頂は現地調査であり、自分の足でその地に入り、自分の目で実物を見、自分の人間性をもって土地の人々の人間性にふれるというものです。彼が歩いたところを日本地図で赤色に塗りつぶすと、人が住んでいるところはほとんど真っ赤になると言われています。富山の薬売りと間違われるような格好で、現地調査に入るのですが(フィールドワークといいます)、宮本は人なつっこい人柄、愛敬のある笑顔、温かい話術で土地の古老たちなどの心を開き、すばらしい様々な伝承を記録することに成功したのでした。その成果は名著『忘れられた日本人』をはじめとする、この本にも抄録されている多くの書物に結晶しています。

宮本の文章には難しい言葉がほとんど出てきません。とても平明でわかりやすい日本語で書かれています。しかし、その内容は民俗を生きる人々の生活の息吹を伝える独特のうねりを持っています。語った人のその語りの調子を見事に生かしきった『忘れられた日本人』の文体など、とても魅力的です。「梶田富五郎翁」から一節を引いてみましょう。

「爺さんは山口県の久賀の生まれじゃそうなが、わしも久賀の東の西方のものでのう、なつかしうてたずねて来たんじゃが…」と話しかけると、

「へえ、西方かいのう、へえ、ようここまで来んさったのう…、はァ、わしも久しう久賀へもいんでみんが、久賀もずいぶん変んさっつろのう」 郷里の言葉をまる出しで話し出した翁には、始めから他人行儀はなかった。私が、

「昔のことをきかしてもらおうと思うて…」と一言いうと、

「はァ、わしがここに来たのも古いことじゃ…」と話し出した。

どうですか、二人のやりとりがありありと目に浮かぶようですね。宮本常一の本を読んでいると、本当に日本が懐かしくなります。グローバル化も必要かもしれませんが、自国の民俗の良さというものを大切にしてこそなのではないか、ということを改めて痛感します。高校生をはじめとする若い人たちにもぜひ読んでほしいと思います。本校の図書館には宮本常一関係の本が、写真版(宮本自身が撮りつづけた日本の人と風景です)も含めて、たくさんあります。

*『忘れられた日本人』は岩波文庫版もありますが、上記に収録されているもののほうが、活字も大きく、振り仮名もていねいにつけられています。

この1冊:第5回 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋社)

最新作の長編『1Q84』が文庫化されて、またまた大ヒットを飛ばしている村上春樹ですが(本屋さんは本気で村上春樹の新作を待ち望んでいるらしい)、彼がすぐれたエッセイの書き手でもあることを知っている人は少ないかもしれません。村上春樹のエッセイがすぐれているのは、平易な言葉で頭や心に浮かぶことを淡々と書きつけてゆくのですが、そこに独特の風合いが漂っているところです。知識のひけらかしもないし、とってつけたようなポーズはないのだけれど、特有の温かみをおびた感性がにじみ出ています。その感性は孤独であったり、ささやかな喜びであったり、ユーモアであったりとさまざまな形をとるのです。読み手である我々はスッとその世界に入ってゆけます。それでいて、味わいがあるのです。

今回とりあげた『走ることについて語るときに僕の語ること』(題名が長いので、以下は『走ること』と略記します)は村上春樹のエッセイの中でも出色のできばえのものだと私は思います。村上春樹はマラソンを趣味としています。しかも、かなり本格的なランナーです。たとえば、2005年11月に開催されたニューヨーク・シティ・マラソンに参加するために、5ヶ月前から計画的な練習を開始し、6月に260キロ、7月に310キロ、8月に350キロ(週に70キロ平均)の走り込みをするといった具合です。このとき、彼は56歳でした(フルマラソンをだいたい3時間半平均で走るそうです)。マラソンの他にもトライアスロン大会に参加したり、サロマ湖100キロウルトラマラソンに参加したり(ちゃんと走りきっています)、また真夏のアテネでマラトンまでの42キロを走ったりしています。

私自身は走ることを趣味としませんし、文中で述べられている学校教育についてのコメントも一面的すぎると思います。しかし、それにもかかわらず読むたびにこの本は静かな、生きる勇気を与えてくれます。記述の中心は「走ること」をめぐっての出来事や感想になるのですが、その合間に述べられる経験則がとても説得力を持っています。たとえば、

「人は誰であれ、永遠に勝ち続けるわけにはいかない。人生というハイウェイでは、追い越し車線だけをひたすら走り続けることはできない。しかしそれとは別に、同じ失敗を何度も繰り返すことはしたくない。ひとつの…」

といった調子です。実は村上春樹の執筆活動の核心は深いところでマラソンと結びついていると思われます。彼自身、「僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?…」と『走ること』のなかでで述べています。小説執筆とマラソンにかぎらず、ここで述べられていることは、コツコツとした努力の積み重ねの大切さ、それこそ日々の充実や大きな達成感を生むのだという生き方の「コツ」のようなものです。それが地道な努力の積み重ねの日々を慈しむようなしみじみとした文体で書かれているところに大きな魅力があります。その点で、『走ること』はさりげない叡智の書と言ってもよいでしょう。

走るのを趣味としている人がこの本を読んで、村上春樹に共感し、それから彼の小説を読みはじめたということも多々あるようです。現在は文春文庫にもなっていますが、本校の図書館には単行本で入っています。

この1冊:第4回 国分康孝『自己発見の心理学』(講談社現代新書)

今回は本校図書館にある講談社現代新書から心理学の本を1冊紹介したいと思います。周りを見回しても、一切の悩みを持たないという人はまずいません。「悩み」とは自分の思い通りにものごとが進まないということです。世の中が自分のためだけに作られたものでない以上、ものごとが自分だけの思ったようにならないのは当たり前です。だとすれば、問題はその悩みに対する態勢をしっかりととれるかどうかということになるでしょう。悩みを抱えたときに、対処の仕方が悪いと、必要以上に落ち込んだりしてしまうのです。

筆者の国分康孝氏はカウンセリング心理学の権威です。筆者によると、悩みが深くなるのは、その悩みに対して正しく考えていないからだということになります。つまり、頭の使い方の上手下手がそのまま幸福なるか、落ち込むかの違いとして反映するということです。人生についての正しい考えを筆者は「哲学」と呼んでいます。本当の知識とは、目の前にある問題を解くのに役立つ知識である。すぐれた哲学は直面する課題や苦悩を解決する力を持っている(ただし、これはあくまでも筆者独自の「哲学」観です)。つまり、人生哲学を正しいものにすることが幸福な人生を送るために必要だということです。

カウンセリング心理学による「論理療法」では、そういう人生哲学の核心をなすのは「ビリーフ」だと考えます。ある「出来事」Aそのものが「悩み」Cを生むわけではなく、その出来事を解釈する「ビリーフ」Bが苦悩の源になるのです。簡単な例で考えてみましょう。

①A「自分にはあまりお金がない」→C「自分は不幸である」

②A「自分にはあまりお金がない」→B「お金がない人間は不幸である」

→C「自分は不幸である」

我々はふだん①のようなプロセスで判断して生きているように思いこんでいます。②のBのようなビリーフは無意識に近い状態の文章記述として心の中に潜んでいるので、なかなか意識されません。そこで、それをあえて意識化して、たとえば②のBを「お金があるにこしたことはないが、人生の幸不幸を決めるのはお金だけではない。」という、より現実的なビリーフに修正したらどうでしょう。その人はあまりお金がないということだけで、短絡的に自分は不幸だと思いこむことはなくなるはずです。

この本は「社会生活」「学習生活」「職業生活」「家庭生活」のそれぞれにおける「ビリーフ」のあり方を具体的に検討しています。自分の心の中にある歪んだビリーフを見いだし、それをより現実にそったかたちに修正することで、必要以上に悩み苦しむことがないようにするのが論理療法の目的です。たとえば「学習生活」での歪んだビリーフとして「頭のわるい人間は人生で高望みすべきではない」がとりあげられています。こういう考え方をしているために萎縮した生き方をしている人は少なくないはずだ、と筆者は言います。第一、アカデミックな知能や学力だけが頭のよいわるいの基準になるわけではありません。ソーシャルな知能も基準になるはずです。学歴も高く、学生時代の成績も良いのに、社会性や人間関係能力が低い例は山ほどあります。自分は頭がいいのだと誤解して、他人に迷惑をかける。そういう人はあまり頭がいいとは評価されないでしょう。自分の人間関係が豊かであれば、それも頭のよさの証になるはずです。それに、何をもって高望みとするかということもあいまいです。また、現在の自分のあり方をもって、今後の人生のすべてを色づけてしまうのも、一般化のしすぎでしょう。

《考えの足りない人間は自分を不幸にしてしまう。みんな、一度は「ビリーフ」に光をあてて、自分の生き方を点検してみる必要があります。そうすることで、充実した人生を送ろうではありませんか。》という筆者の呼びかけにあふれている本です。

この1冊: 第3回 貝田桃子『ちびまるこちゃんの文法教室』(集英社)

高校の古典の授業で、生徒たちが苦労するのが古典文法を習得することです。古典文法には、動詞、助動詞、敬語法という大きな山が三つあると生徒には言っているのですが、その最初の動詞の段階でつまずいてしまう人が多いのです。我々はふだん文法をことさらに意識しないでも、聞いたり、話したり、読んだり、書いたりできています。ですから、現代日本語の文法についての正確な知識がなくても一応生活できています。しかし、古文を読むとなると、その当時の文法の知識がないと読めないということになってしまうのです。たとえば、いくら多くの単語を知っていても、その単語同士のつながりのルールがわかっていないと、文章の正確な意味を理解することができないのです。

古典文法の習得が高校生に難しいのにはいくつかの理由が考えられます。

1,まず、第一に使われている言葉自体になじみがない。

2,次に、中学校までに習う現代文法に比べて覚えなければならない事項が多い。

3,そして、古典文法の土台になる現代の文法についての知識が不足している。

生徒たちに教えていて、私は特にこの三番目のことを痛感させられることが多いのです。小学校、中学校で学んでいるはずの文法の基本的な用語の意味がわかっていない。極端な場合には、品詞の概念(助動詞とは何か、副詞とは何かなど)がわかっていない生徒もいます。本当は、現代の文法について復習する時間をとれればいいのですが、文法ばかりを扱うわけにはいきませんから、授業ではどうしても古典文法をこなすだけで精一杯になります。

今年の4月に集英社から満点ゲットシリーズの一冊として『ちびまる子ちゃんの文法教室』が出版されました。筆者の貝田桃子さんは現役で高校で国語を教えられている方です(漫画の原作者さくらももこさんとは「ももこ」つながりというですね)。もちろん中学校で使った教科書や文法書で復習することは可能ですし、書店に行けば参考書のコーナーに現代文法の解説書はたくさんあるでしょう。けれども、文法のことがよくわからない高校生が自分で読んで学ぶとなると、二の足を踏んでしまうのではないかと思います。その点、『ちびまる子ちゃんの文法教室』は、みんながよく知っているキャラクターが登場して、漫画を使いながら行われる説明が具体的でわかりやすい。たとえば、修飾語について「花輪くん」が「意味や内容をくわしく説明する文節のことを「修飾語」というのさ」とか「飾り言葉ともいわれている言葉のドレスさ!」と説明しているといった調子です。

文法の概念は抽象的なので、具体的な生活場面での使われかたを知ることが理解の近道になります。この本は漫画が説明に用いられているので、その点で非常にすぐれているのです。しかも、現代文法習得に必要な事項はほぼすべてきちんととりあげられています。書店の店頭で立ち読みしたときに、内容をパラパラと見て、これは良い本が出たなと思い、その後、実際に買ってくわしく読んでみました。あらためて高校生が現代文法を自分で復習するためには最適な内容の本だと感じました。その理由をまとめると、

①子ども向けだからといって、安易に説明が省かれることなく、必要な事項がきちんと押さえられている。

②わかりやすい。(クラス新聞にしたりなど説明の仕方にも様々な工夫がされています。)

③おもしろい。(ちびまる子ちゃんになじみがあれば、スイスイと読んでいけます。)

この本でしっかりと文法の概要をつかんでおいて、よりくわしくは他の説明書にあたればいいでしょう。私の感じでいえば、古典文法を学んでいくための復習ならば、この本で書かれている内容で十分です。文法の基本用語についての知識が必要なのは、古文の読解にかぎりません。英文法の勉強においても、絶対に必要になっているはずです。本校の図書館でも購入しました。文法に苦手意識を持っている人、文法を楽しく学びたい人はぜひ読んでみてください。

この1冊・第2回 辻邦生『西行花伝』(新潮文庫)

現在、NHKの大河ドラマでは『平清盛』が放送されています。清盛は若い頃、「北面の武士」という役目に就いていました。上皇(出家して法皇、院ともいう)に仕えたのです。その同僚に「佐藤義清(さとうのりきよ)」という紀州田仲庄(現在の和歌山県那賀郡)出身の武士がいました。ドラマのなかではずいぶん「イケメン」の俳優(藤木直人)が演じていますが、実際に佐藤義清すなわち西行法師は当時も女性から大変好かれたようです。前回、とりあげた白洲正子も中世の動乱期を生きた僧侶のなかでも、西行や明恵(みょうえ)といった人たちはとても女性にモテたにちがいない、と述べています。佐藤義清は乗馬や弓の腕前がたいへん優れていたそうです。つまり、侍としての機動能力や戦闘能力が高かった。強い武士としての一面は出家後もいろいろなかたちで逸話が伝えられています。しかも、当時の貴族たちが行っていた蹴鞠という競技においても群を抜いて上手だったと言われています。藤原成通(ふじはらなりみち)という当代随一の蹴鞠の名人の弟子だったそうです。そして、和歌を詠むのが大変うまかった。つまり、強くて、スポーツができて、芸術的な柔らかい心も持っている。そういう武家の貴公子が佐藤義清でした。

佐藤義清は23歳の時に突然、出家してしまいます。そのはっきりとした理由は現在でもわかっていません。出家というと現実の世の中をはかなんで、逃避するように生きてゆくというイメージがありますが、西行はけっしてそのようなネガティブな姿をさらしませんでした。その後の生き方をみると、むしろ、思慮深い青年の果敢な行動だったとさえ感じさせます。出家後の西行には上にあげたような特性に加えて、哲学的な面もみられます。「心」の問題を自らに問いかけ、月や花などの自然美のなかにも「仏性」が示し現わされていることを和歌に詠みつづけました。西行は日本の歴史上の人物の中でもとりわけて魅力的な存在ですし、高校の古文の教材にも必ず登場する人物です。

辻邦生の『西行花伝』はそういう西行の生涯を本人と周囲の人々の証言で描いたものです。語りをまとめる役目で、西行の弟子として登場する「藤原秋実(あきざね)」は架空の人物かと思われます。作品冒頭の秋実の語りを引いてみましょう

「あのひとのことを本当に書けるだろうか。あの人―私が長いこと師と呼んできたあの円位上人(えんいしょうにん)、西行のことを。(中略)たしかに私にとってあの人―わが師西行はあまりに大きな存在だった。私はどんなに努力してもあの人に達することができなかった。」

この作品は身近にすぐれた人間がいることへの驚きと師に対する敬愛の気持ちが行間ににじみ出る傑作です。その師への深い敬愛の念が独特の情緒を生み出し、この作品に生命を与えているといってよいでしょう。作者の辻邦生も藤原秋実になりきってみごとに作中の世界を生きています。文章もしみじみとした味わいをたたえており、描かれる自然の描写もとても美しい。それでいて、当時の動乱が人心をさまざまなかたちで翻弄し、しいては破滅させてゆく様も冷徹といっていい感じで描かれています(作中では西行も記憶喪失になり、言葉を発することができなくなる場面があります)。  和歌の「美」の世界が「力」による政治の権力争いを越えるためには、何が必要とされるのか。「心」の修め方をいかにすべきか。そういう問題を抱いて、西行は乱世のなかで考え、行動してゆきます。その姿が藤原秋実の、そして周囲の人々の心を動かし、ひいては読者に強い感動を与えるのです。本校の図書館には新潮文庫で入っています。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。

この1冊・第1回「白洲正子『白洲正子自伝』(新潮文庫)」

 現代の若者は本を読まないと言われます。それ自体、残念なことですが、なかでも「自伝」があまり読まれないのは、本当にもったいないことだと思います。有名な自伝は内容的におもしろいですし、自分の人生を考えるうえでもたいへん参考になることが多く書かれているからです。日本人だけでも、福沢諭吉「福翁自伝」湯川秀樹「旅人」加藤周一「羊の歌」などはすぐれた自伝です。実際、読書の楽しみに目覚めた人の中で、自伝を読んだのがきっかけになったという人は多いのではないでしょうか。

 今回、紹介するのは「白洲正子自伝」です。新潮文庫から出ています。数年前にNHKドラマで白洲正子とその夫である白洲次郎をとりあげたものを放映していました。女優中谷美紀が正子を演じていました。あのドラマではどちらかというと次郎のほうにスポットがあたっていたので、語り手の正子のほうの人生の波瀾万丈さは前面に出ていませんでした。実際、正子の人生はとてもおもしろい。出生してから、あるいは学校に通うようになって、あるいは次郎とのなれそめなど、文句なしにおもしろいのです。

 文庫本の表紙には幼い正子が不機嫌そうに祖父の膝上にのっている写真が使われています。この自伝は初太刀の一撃に生死を賭ける薩摩示現流の達人であった、その祖父樺山資紀(かばやますけのり)の逸話から始まります。若き資紀は朋友の首をはねとばす役目を命じられ、実行するのです。そういう荒々しい薩摩隼人の血を受け継いだ正子も、とても活発な少女として、まわりを振り回しながら成長してゆきます。

 幼い頃に意地を張ってずっと口をきかずに通したり、かっこいいからと言って能を学び、女子禁制の能舞台に女性ではじめて上がったり、次郎との激しい恋におちて、一緒になれないなら駆け落ちするとまで覚悟したり、骨董をめぐって弟子入りした青山二郎というのが超弩級の変わり者だったり…、やがて正子はすぐれたエッセイストになってゆきます。特に日本文化の特質をあつかった文章はとてもすぐれています。それらの文章もぜひ読んでほしいのですが、まずこの爽快とも言える自伝から読んでみてください。