この1冊:第13回 茨木のり子集『言の葉』1~3(ちくま文庫)

今の日本の若い人たちは詩集をあまり読みません。授業で「詩」を扱っても、おもしろいストーリーの展開があるわけでもなく、内容的に何か知識が身につくわけでもない「詩」を読む意義がわからない、という感じです。

ところで君たちは絵を見たり、音楽を聴いたりするときに「これは何か役に立つかな」と思って鑑賞するでしょうか。「嵐」でも「AKB」でも、好きなポップスを聴くときに、「何か得をするから」と思って聴きはしないでしょう。我々はそれが好きであり、それを聴いて楽しいから聴くのです。「詩」もそうであって、詩の言葉は何かの役に立つために使われているのではありません。

 自然の美しさ、恋の苦しみなど何かに対して感動した作者の心が「言葉のかたち」をとって表されている。その「言葉のかたちとなった感動」を読んで、我々も心を動かされる。詩を読んで何かできるようになるわけでもないし、知識が増えるわけでもないが、詩は私の心を豊かにしてくれる。感じる心を育んでくれる。人としての感性が磨かれ、心が豊かになる以上にすばらしいことがあるでしょうか。他の人の気持ちがよくわかるようになり、物事の味わいが深くなってゆくのです。民族の言葉で作られてきた多くの詩歌は自然と我々の心を育んでくれるものなのです。

 効率や利益ばかりで物事の価値を判断することを功利主義といいます。日本社会の功利主義的風潮には拍車がかかるばかりですが、そのぶん日本人の心がどんどん貧しくなっていっているのではないでしょうか。できれば、自分の好きな詩人をみつけて、折にふれてそれを楽しむようでありたいものです。

 茨木のり子の詩は高校の教科書にもよく収録されます。わかりやすい言葉を用いていますが、表現は豊かで、訴えかける力には強いものがあります。読んでいると自分の人生を背筋をピンと伸ばして、しっかりと歩んできたひとりの女性の姿が思い浮かぶようです。詩を解説するのは音楽を言葉で語るのと同じく、難しいものです。この詩人らしいフレーズを一つとりあげることでその表現の一端を味わってみましょう。

  「握手」より

 手をさし出されて/握りかえす
 しまったかな?と思う いつも/相手の顔に困惑のいろ ちらと走って
 どうも強すぎるらしいのである/手をさし出されたら
 女は楚々と手を与え/ただ委ねるだけが作法なのかもしれない

  ああ しかし そんなことがなんじゃらべえ
 わたしは わたしの流儀でやります

 自分のあり方は世間一般のそれとは少し違うかもしれないけれど、わたしはわたしの生き方を貫くのだという思いが、ユーモアを交えてさりげなく、それでいて見事に「言葉のかたち」となって表現されていると思いませんか。若者の自立心を芽生えさせ、育てるのは勇ましいスローガンや声高い説教でしょうか、それともこういう詩の言葉を味わうことによってでしょうか。大人たちもよく考えてみる必要があるかもわかりませんね。

 『言の葉』には彼女の詩だけではなく、エッセイも収められています。

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