この1冊:第15回 切通理作『宮崎駿の〈世界〉』 (ちくま文庫)

大学入試現代文の出題では完全に評論が主流になっています。実際に見ればわかりますが、しかも相当に長い文章が問題文として出されることが多いのです。国語の教師として3年生の生徒から評論文対策を尋ねられるわけです。求められれば、即効性のある対処療法的なアドバイスを一応はします。しかし、その底力は本格的な評論を何冊かしっかりと読み通すことでしか養われません。

 入試評論文が難しいと感じる原因にはいくつか考えられます。この際ですから、少し分析してみましょう。

①評論文に苦手意識を持っている
②文章自体が難しい
③扱われている対象について興味がなく、よく知らない

①は心理的な問題です。これは評論というものに対する偏見をただして、順序立ててそれなりの数の問題をこなしてゆけば、克服できることが多いのです。現在の日本語で書かれているためにおろそかにされがちですが、入試対策では現代文分野でもパターン化された解法を身につくまで練習することが大切になります。

②については今はそんなに極端な難文は出題されない傾向にあります。今でも著者の文体そのものが難解な言い回しを用いている場合もありますが、使われている漢字や用語についての知識(語彙力)が不足している場合のほうが多いようです。その場合、私はまず生徒に「現代評論用語」を覚えさせています。

③については、自分の興味関心のある分野の評論を読むようにアドバイスします。今はあらゆる分野で評論が出ている時代です。特に、サブカルチャーと呼ばれる方面での評論は非常に盛んになっています。生徒には「JPOP」「アニメ」「スポーツ」の評論もある、どれか好きなものはあるかと訊きます。たとえばサッカーが好きならば有名な選手の評伝を、AKBが好きならばアイドル文化論を、という具合です。今回とりあげるのは、宮崎アニメについての評論です。

 著者は宮崎アニメの『風の谷のナウシカ』から『崖の上のボニョ』までを対象として論じています。これは本格的な評論です。しょせんアニメについてだろう、という見方を持った人が読めば驚くと思います。宮崎アニメには様々な要素が含まれています。自然と人間の共生、種族や立場が異なる人間同士の差別や偏見の問題、人間存在そのものの不思議さ、日本文化と日本人の本質…。そういうスケールの大きい宮崎アニメを論じるということはその作品のみならず、それらのテーマや問題を分析し、考察することにもなるのです。

 たとえば、『千と千尋の神隠し』での「汚さ」へのこだわりの背後には、どろんこ遊びが好きな子どもの心理もありますが、合わせて「けがれ」と水によるそのカタルシスという日本文化の特徴的な点もあると指摘されます。また、あの部分を映像論という視点からも論じることが可能でしょう。

 評論文の読解には「知識を身につける」という面もたしかにありますが、むしろ「知識を深める」という面のほうがより重要になります。すでに知っていると思いこんでいたことについて、あたらしく発見するような見方を教えられる。我々がふだんはめてしまっている「一般常識的なものの見方」という「色めがね」をはずして、対象と直に向き合うことの大切さを学ぶ。知識が深くなると、世界が広がり、自分の内面も豊かになるのです。

 たとえば『もののけ姫』に登場する「アシタカ」という青年は大和政権に追われたアイヌの一族の者であり、あの映画に登場する人々が中世の動乱に中で差別や偏見を乗り越えて人として必死になって生きる姿には、数々のメッセージ性がたたえられている。タタラ場で働いていた全身を包帯で巻いていた人々はいったいどういう人たちであり、高下駄をはいた「ヒコボウ」という男の正体は何なのか。もちろん、それらのことを知らなくても、あの映画を楽しむことはできます。しかし、それを知ることは封印されるように埋もれてきた人々の歴史の真実に出会うことになるのです。

 私もこの本からいろいろなことを教えられました。宮崎作品を見たことのある人なら、うんうんなるほど、と言った感じで読めると思います。なにしろ、登場するのがなじみのあるキャラクターばかりですから。

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