この1冊: 第16回 俵万智『サラダ記念日』(河出文藝文庫)

   「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智と言えば、『サラダ記念日』という作品名の由来になったこの短歌が有名です。たしかに強いインパクトを持つ歌ですが、それだけが少々有名になりすぎた感じがします。

   「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
   また電話しろよと言って受話器置く君に今すぐ電話をしたい

これらの歌もその当時はとても清新な感じを与えたものです。しかし、こういう歌のイメージだけが作者の本質だと思いこまれ、「重みがなくて浮薄だ」だの「誰でも詠める」などという批判もされてしまったようです。この作者にはしっかりとした語彙の知識と日本文学についての教養があり、それが奥行きと深みを与えている歌がたくさんあります。

   あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である

  百人一首を覚えている人ならば、この短歌を見て必ず思い出す和歌があるはずです。

   逢ひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり( 藤原敦忠) *

敦忠の歌は、恋が成就した後にいっそうつのる相手を思う切なさを詠んだ後朝(きぬぎぬ)の歌です。それを俵万智はさりげなく現代の恋愛歌へと読み替えています。これは「本歌取り」という技法なのですが、百人一首を知っている人は俵万智の短歌を味わうときに、敦忠の歌の意味を同時に思い浮かべてしまいます。恋がはじめて実ったこの夕暮れ時には、いとしい「君」の姿しか私の目には入らない、他の風景はあるけれどもそれはすべて「君」あってのものなのだ。一見、「君」という呼称や「である」という客観的な末尾表現によって(たとえば「君」を「あなた」に、「である」を「がある」に変えると主観が勝った歌風になります)、また音にして詠んだときの響きによって、歌の姿は平静を装っているのだが、しかし内心では恋の情念の炎がめらめらと燃えている。逆に言えば、恋愛の絶頂期でさえ、そういうあり方を透徹したまなざしで見る自分がいるということでしょうか。恋の思いに身を焦がしながらも理智的な自分はその人の色に染まる景色と自分をとらえている。これはそういう女性の気持ちをうまく表現した短歌だと私は思います。王朝の恋の表現と現代の恋心が一つの短歌の中で純粋なハーモニーを生み出している。それは人を思う気持ちには昔も今もないからでしょう。

   同じもの見つめていにし吾と君の何かが終わってゆく昼下がり

これは激しく燃えていた恋心にやってくる退潮の予感を詠んだ歌です。一つだと思っていたふたりの心が別々になってゆく哀しみを漠然と不安に感じている。「昼下がり」というのはふたりの恋心もあとは頂点から下がってゆくばかりだという感じを出すのに効果的な表現ですね。明確な言葉にはならない「何か」、二人にしかわからない大切な「何か」が「終わってゆく」。なんとなく消えてゆくのではありません。その恋には喜びに満ちた始まりがあったからこそ、それだけせつない終わりがあるのです。この短い歌のなかに強い感情のドラマが静かに凝縮されています。歌においては微妙な表現の差異が、大きな意味あいの違いを生むのです。この歌にも「~にし」という文語が用いられています。完了の助動詞「ぬ」連用形と過去の助動詞「き」連体形の組み合わせです。完了と過去の組み合わせですから、そのことが過去のある時点で完全に終了してしまったこと、取り戻すことができないのだという感じをあらわします。単純な過去や完了ではないのです。もはや二人で同じものを見つめるという状態は過去のものとして完了してしまったのです。その響きがとどめられない事態と時の流れを感じる「吾」の「哀しみ」にキリッとした緊張感を与えていると思います。

私の尊敬する江戸時代の本居宣長という学者は、「歌は言辞の粋」だと言いました。人にとって大切な「もののあはれ」を知る心の純粋な表現が和歌なのである。日本人は長い歴史をかけて五七五七七の歌形式に自分の思いを詠んできました。その短歌でさえ文語使用の壁によって、普通の人々の生活感覚から離れてしまおうとしているときに、俵万智はもう一度短歌をわれわれに親しみのあるものに変えてくれました。そのことを短歌の調子を低くしたと批判する向きもありますが、私はむしろその功績ほうに大きなものがあると思います。

最後に俵万智が国語の教師として神奈川県の高校で教えていたときのことを詠んだ短歌をいくつかあげておきましょう。この二首目などは教師の視点から見た学校生活の叙景歌としては秀逸だと思います。嗅覚を形容した「ほのぼの」という古雅な表現と近代的な「微分積分」という硬い数学用語の対比が効果的です。四首目は茶目っ気にあふれた、若い女性のはつらつとした学校での教師生活がうかがえる歌になっています。

   薄命の詩人の生涯を二十分で予習し終えて教壇に立つ
   シャンプーの香をほのぼのとたてながら微分積分子らは解きおり
   数学の試験監督する我の一部始終を見ている少女
   万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

俵万智の短歌は実作のための良いお手本になるでしょう。高校生のみんなも自分の思いや感動を短歌のかたちにしてみてはどうですか?

*藤原敦忠の歌について…『拾遺和歌集』「恋二」所収のかたちでは、第四句が「昔はものも」となっている。こちらのほうがより相手を思う内面の屈折率が高まるように思う。しかし、ここでは、よく知られた百人一首に収められたかたちでとりあげた。

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